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北村薫「玻璃の天」

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昭和初期の帝都を舞台に、令嬢と女性運転手が不思議に挑むベッキーさんシリーズ第二弾。犬猿の仲の両家手打ちの場で起きた絵画消失の謎を解く「幻の橋」、手紙の暗号を手がかりに、失踪した友人を探す「想夫恋」、ステンドグラスの天窓から墜落した思想家の死の真相を探る「玻璃の天」の三篇を収録。
(「BOOK」データベースより)

ベッキーさんシリーズの二冊目、「街の灯」「鷺と雪」の間に入ります。
中継ぎ投手とあなどるなかれ、シリーズ3冊の中では一番面白いんじゃないかしら、と思います。極私的には。
あ、でも、そもそも中継ぎ投手ってあなどられるべき存在なんでしょうか?野球のご作法がいまいちよく分かってない私。
 

この「玻璃の天」では、件のスーパーウーマン・ベッキーさんの謎が明かされたり、英子ちゃんが一人の陸軍少尉と出逢ったりと、3部作完結に向けての重要なピースが嵌め込まれて行くので要チェック。
はいみんなここ試験にでるよー。テキスト「鷺と雪」に進む前には押さえておいてねー。
 

以上、「玻璃の天」の説明、終わり。
 

それよりもさあ、この本の中では語りたくってたまらない箇所があるのよ。

「玻璃の天」の中の短編『想夫恋』では、主人公の英子がとある書籍をきっかけにして親しい友人ができます。
その本というのがね。

ひと目でわかった!
他の本だったら、こうはいかない。ちょうど開かれたページに、特徴のある挿絵が描かれていたのだ。この夏に出た、岩波文庫の一冊だ。

昭和八年(1933年)に岩波書店から発刊された「あしなが おぢさん」
国立国会図書館のデータベースによれば、訳者は遠藤寿子さんというお方。
 

「あしながおじさん」と言えば、過去にこのブログで私の妄想(暴走)が花開いた乙女きゅんきゅんPG12指定図書(嘘)ではありませんか!
 

当然のことながら、我が家にもあるんですよ「あしながおじさん」
でもこちらは1985年の旺文社文庫(初版は1966年)。訳者は中村佐喜子さんというお方。
 

1933年、戦前の「あしながおぢさん」
1966年、戦後の「おしながおじさん」
 

経年したのは、たった30年ちょい。
でも、だいぶ違うんですよ。
どう違うのかって?んー、例えばねえ。

ヂャーヴィー坊ちゃんは社會主義者よ——たぶんあたしは、當然社會主義者なんでせう。あたしは無産階級の生れですもの
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)

あの人は社会主義者ですのよ。——たぶんわたしは生まれながらに社会主義ですわね。無産階級ですから。
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)

本当は「おぢさん」の方では、“社”の文字も旧字体ではあるんです。パソコン表示できる文字には限界がありまして。
 

上記は訳し方のちょっとしたクセくらいにも思えますが、さらに違いを突き進めると、以下のように。

快遊船とか自動車とか、叉は子馬のやうな氣の利いたものにお金を使はないで、いろんな氣狂ひじみた改革事業に捨てて了ふ
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)

気ちがいじみた革新的なことには何にでもすぐお金を投げ出すくせに、ヨットとか、自動車とか、ポロ用の仔馬とか、そんな上品なものにはすこしも使いませんの——
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)

ヨットを“快遊船”と記述するところが、まあ、和訳って素晴しいですね!
でも多分ここの文章は、今出版されている本だとさらに違っているんだろうなと推測します。“氣狂ひ”も“気ちがい”も、倫理?道徳?コンプライアンス?な理由で自粛する可能性が高そうです。
 

さらにもっと違いは続く。

假りに鏡で作った大變大きな空洞の珠があつて、あたし達がその中に坐つてゐるとしたら、あたし達の顔は何処で映らなくなるでせう、そして背中はどの邊から映り始めるでせう?この問題は、考へれば考へる程解らなくなります。あたし達が閑な時間でも、どの位深奥な哲学的考察に耽つてゐるかよくお解りでせう!
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)

ひじょうに大きな中空の球体があって、それが鏡でできていて、その中に人がすわったとします。顔が映るのは鏡のどのへんまでで、どこから背中が映るでしょうか?この問題は、考えれば考えるほどわからなくなります。わたしたちは、ずいぶん深遠な哲学的考察に余暇を使っていますでしょう!
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)

「おぢさん」の旧字体や仮名遣いはゲルニカ(ピカソじゃない、戸川純)の世界ですね。いや「おぢさん」の方が本家本元なんだけど。
「おじさん」の方が、イメージとしてひらたくなっている印象は見受けられますが、これは単に現代文に近いから読みやすいというだけかもしれません。
 

多分、今現在発売されている「あしながおじさん」は改めて別の人が訳しており、同じ文章でもまたさらに違った印象を与えられるのでしょう。
ちょっと読んでみたいような気もします(でもきっと読まないw)
 

戦前のお嬢さんもね、昭和後半のお嬢さんもね、そして平成のお嬢さんもね。
「あしながおじさん」で乙女心をきゅんきゅん言わしていたのかと思うと、そんな時間のつながりにまたきゅんきゅん。そう考えるのも、また面白いというものです。
 

……いつかは、答えは出るんですかね?
球体の鏡の中では、人はどう映るのか。

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