暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。僕は一九六九年、もうすぐ二十歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱し、動揺していた。限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説。
(「BOOK」データベースより)
吉本ばなな「キッチン」と同時期に大流行りしたのが、村上春樹の「ノルウェイの森」でした。赤と緑のクリスマスカラーの表紙がお洒落と、当時は話題になりましたねえ。
初めて読んだ20歳くらいの時には全く気がつかなかったのですが、「ノルウェイの森」の巻頭には『多くの祭り(フェト)のために』というエピグラフがあります。
ちと調べたら、スコット・フィッツジェラルドの言葉の引用だそうです。主人公のワタナベくんが3回読み返した「グレート・ギャッツビー」の作者。
“祭り(フェト)”が何を指しているのかは、不明。
学生運動の狂騒なのか、青春時代の郷愁なのか、ポール・ニザン的な葛藤なのか、多分どれでも、読者が好きに思ってて良いのだと思う。本は読者のものだと、作者も言っている。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
以前ほんのむしで小池真理子の「青山娼館」を取り上げた際に、主要登場人物がバッタバッタ死ぬ死ぬみんな死んでいくので『この小説の登場人物の死亡率の高さは、村上春樹の「ノルウェイの森」に匹敵する。』と書いたことがありました。
そこで、実際に比較してみようじゃないかと数え上げてみたら…すいませーん小池さーん!「ノルウェイの森」の方が死にまくってましたー!「青山娼館」の方がまだ生存率高かったー!
全525ページの「ノルウェイの森」。死亡しているのはキズキ、直子、直子の姉、ハツミさん、緑の父、緑の母の計6名。
対して、ある程度名前があがっている登場人物で生き残っているのは、
ワタナベくん、緑、永沢さん、緑の姉、レイコさん、突撃隊の6名。
6名 + 6名 =12名。
きっちり50%、半々の割合で死亡しています。「青山娼館」の致死率40%がMERSコロナウイルス並だとしたら、「ノルウェイの森」はエボラ出血熱でしょうか。
ここまで死屍累々とした状況下ならば、死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。というワタナベくんの感想にも頷ける。喪服をクリーニングに出す暇もありゃしない。
データ検証といえば、ほんのむしでは渡辺淳一の2冊で、性愛に関する描写のページ数を数え上げたこともありました。
世の中には『村上春樹はエッチだから読んじゃダメ』と子供に禁止するお父さんお母さんもいるとかいないとか。
確かに性的な記述は多いですけどねえ。セックスをタブー視しない社会が初体験の若年化を減少させるという考え方が、現代の性教育のセオリーらしいよ?
まあ、とりあえずやってみましたデータ検証。渡辺センセイ2冊と同様、性愛に関する記述があるページ数をカウントしました。
その数88ページ。ハードカバー上下巻合計525ページ中のうち、およそ16%。ちなみに実際に性交渉を行っているページはもっと全然少ないです。
うーん。これじゃあ日経新聞の読者層は納得しないなあ。別に納得させる必要もないですけどね。
村上春樹と渡辺淳一を比較すると、同じようにセックスを会話の遡上に上げていながら、その印象もだいぶ異なります。
渡辺センセイはじっくりムッチリあっはんうっふんと、ねばっこくサラリーマン諸氏のエロ心をくすぐります。
対してムラカミズムは…なんだろう。これを読んで性欲を刺激される層は、あまり居ないのじゃなかろうか。
別に芸術的とか、純文学だからとかじゃなくって、村上春樹のセックスって、草原で出会った原始人同士が『やほほー、交歓するっほー』『んだんだ、交歓するっほー』とドラミングしながら言い交わすようなイメージがあります。性的に放縦だったという学生運動当時の時代感もあるのかもしれないけど、ご挨拶的な性交渉が今現在よりも盛んだったのか。なんとなく平安時代っぽいおおらかなセックス感がありますね。
まあ、二十一世紀のこの時代『村上春樹はエッチだから読んじゃダメ』と子供に禁止するお父さんお母さん方の気持ちがわからない訳じゃないですけどね。禁止されてこっそり読む楽しみってのも、きっとあるしね。
「ノルウェイの森」に関する解説や書評は、世の中に腐るほどあるので、まっとうな書評をお読みになりたい方はそちらでどうぞ。
私はここで、アンチ村上の言い分『村上春樹の小説の主人公はいつも女の方から群がってくる、そんなにモテる筈がない』への反論をしよう。
「ノルウェイの森」のワタナベ君は、確かに女性に不自由することなく、こっちからモーションをかけずとも女のほうから寄ってくる。確かにね。
だって寄って行きたくなっちゃうんですもの。ワタナベくんの緑に対する愛情表現を読むとそれがわかる。
「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。
「どんなこと?」
「なんだっていいわよ。私が気持良くなるようなこと」
「すごく可愛いよ」
「ミドリ」と彼女は言った。「名前付けて言って」
「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言い直した。
「すごくってどのくらい?」
「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」
「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔払い方も、なんでも好きだよ」
「本当にこのままでいいの?」
「どこをどう変えればいいのかがわからないから、そのままでいいよ」
「どのくらい私のこと好き?」
「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。
「君が大好きだよ、ミドリ」
「どのくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
「春の熊?」と緑がまた顔を上げた。「それ何よ、春の熊って?」
「春の野原を君が一人で歩いているとね、向こうからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面を転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」
「すごく素敵」
「そのくらい君のことが好きだ」
春の熊くらい好きだなんて言われたら、私だってコロっといっちゃいますよ?
いや正直、リアル生活でこれを言う男性はいないかもしれない。実際に言われたらドン引きかもしれない。
しかし、村上春樹の小説であれば許されます。何故なら村上春樹の小説は、ある意味ファンタジー小説だからです。そもそも村上春樹の小説にリアリズムを期待する方が間違ってる、んじゃない?
アンチ村上を自称しつつ、ワタナベ君くらいに女に不自由しない生活を送りたいと思っている男性諸君よ。これからはファンタジーの住人になろう。そして春の熊になろう。子熊になってクローバーの野原で転がりっこするんだ。
そうしたら君も、立派なムラカミストに、なれる、かも、しれないっ。