愛がなくては生きていけないが、滅びることのない愛もまた存在しない。滅びるからこそ、刻々の愛はきらめく……。男性に従属しないで自由に生きる女を支えているものは何か? 情熱の純粋さにいのちを賭け、より多く愛し、より多く傷ついた著者の半生が語りかける確信と愛による人生の意味の再発見。
(集英社より)
私のオアシス図書館をそぞろ歩きしていたところ、エッセイの棚に差し込んであったこの本を見つけました。
「あれ?」と目に留まった理由は、作者の名前が瀬戸内晴美ではなく瀬戸内寂聴になっていたから。
瀬戸内寂聴といえば、天台宗・寂庵の住職としてよくテレビなどでも見かけるお方ですね。
剃髪してツルツルの頭と、色白でふっくらしたお顔立ち。柔和な笑顔でお話される姿に『可愛いおばあちゃん』的イメージをお持ちの方も多いのでは。特に平成生まれの方には。
ご年輩かつ聖職者ということで、瀬戸内寂聴は色だの欲だのという俗っぽいイザコザとは無縁の人なのではないかと思っている、そこのお若いの。
瀬戸内寂聴が、かつては瀬戸内晴美という名前の作家だったこと、夫と子供を置いて若い男と逐電した過去を持ち、発表した小説「花芯」がポルノ小説であると批判され、子宮作家とも呼ばれて何かと物議をかもしたお人である事実はご存知でしょうか?
「ひとりでも生きられる」は、瀬戸内寂聴が得度する直前、まだ瀬戸内晴美であった頃に綴った、自らの愛と、性と、人生について書いたエッセイ集です。
私は五十歳になった。でも恋の箱の蓋を閉じようとは思わない・・・(中略)・・・醜くなって、裸になれなくなったら私は正直に囁くだろう。
「あかりをも少し暗くして。自信がないから、少しでも美しく見てほしいから」
そう頼んだ時、聞きいれてくれないようなデリカシイのない男を、私ははじめから恋の相手に選んだりしない。
瀬戸内寂聴は「ひとりでも生きられる」において、自分や周囲の女性の男性遍歴などを赤裸々に書いていますが、別に読者の女性に真似しろとは言ってない。もっと性の解放を!とアジテーションしている訳でもない。
かと言って過去の自分を卑下している訳でもなく、言い訳じみた思い出話をしている訳でもない。
ただ、淡々と自分の来し方を振り返りながら「こうとしか生きられない」と、ギリギリと歯を食いしばるような、切迫した想いが伝わってきます。
縁を切る心の中に、私は自己愛を見るのである。
浄瑠璃の中の女のような、献身や捨て身の犠牲奉仕は、私の男を愛する心の中にはないと思う。
男に尽くしもするし、出来ないがまんもしてみせる。しかし、最後には自分の肥料のために存分に男から栄養分を吸いとってしまっている自分に気づく。もう吸いつくす栄養分のなくなった頃、不思議に別れの時が来る。
だからといって、彼女たちは愛することを止められるだろうか。
マイホームの中の妻たちが、自らまやかしの幸福の幻影の中に身をとじこめ、偽の酩酊に身をゆだねているのとはちがって、彼女たちは、何度も性こりもなくくりかえしてみた真剣な恋とひきかえに、人間は孤独だという動かし難い真理を抱きとめている。
・・・(中略)・・・
人間は淋しいから、燃えた後には美しいけれど、すぐに冷たくなる脆い灰が残るから、人間はよりそいあい、あたためあおうとする。
その時、はじめて、相手をゆるす真心の愛が生まれる。
「ひとりでも生きられる」を上梓する前に、瀬戸内晴美は修道女を志して教会の門を叩くのですが、過去の行いなどが問題となってカトリック教会では受け入れてはくれませんでした。
出家をしようとした数々の寺院でも門前払いを受けられたそうです。
問題小説を書いた著名な作家であるという立場も、各宗派からなかなか受け入れられなかった理由でもあるのかなと思います。
まあねえ。石田純一が坊さんになるって聞いても「冗談だろオイ」って信じなさそうだもんね。ちょっと違う?
天台宗の中尊寺で得度し、寂聴というホーリーネームを手に入れた瀬戸内寂聴。
「ひとりでも生きられる」というタイトルの本を出版しながらも、一人では生きられない自分。
だからこそ、神でも仏でも、ひとりではなく魂の同行者、あるいは指示者を求めていたのかもしれません。
余談ながら、今回「ひとりでも生きられる」を読んでみたところ、さくら実母がかつて所有していた本だったという事を思い出しました。
「ママっ!」
と飛びついてきた子供の耳の後ろにうっすらと垢がたまっているのを見とめた時、彼女は声を放って哭いた。
上記の一文は瀬戸内寂聴自身の体験ではなく彼女の知人のエピソードなのですが、この文章を読んだ時に、昔にこの本を読んだ10代の頃の風景が、ワーッと映像になって心中に浮かび上がってきました。
母の愛読書が並んだ台所の棚の上に乗っていた、炊飯器のポピーの花柄までも。
しかし「ひとりでも生きられる」を読む中高生の自分もどうかと思うけど、曽野綾子といい有吉佐和子といい桐島洋子といい、さくら実母の読書傾向が一貫していて、我が母ながらちょっと怖いw
話を戻しつつ。
もしね。瀬戸内寂聴に対して、そこらの『可愛いおばあちゃん』というイメージしか知らない人がいたならば。
もし機会があったら、「ひとりでも生きられる」を読んでみるのもいいかもよ。
過去の瀬戸内晴美を知らなくても、いまの瀬戸内寂聴の何かが変わる訳じゃないんだけど。『可愛いおばあちゃん』で何が悪いという訳じゃないんだけど。
でも、もし読んだら、『可愛いおばあちゃん』がかつて血を吐くような、身を絞るような恋を繰り返していた人だという過去を知ったら。
あの人に対する見方が、ちょっと変わるかもしれないよ。
人を沢山傷つけて、自分も沢山傷ついたことがある人の言葉は、深くて、重い。
恋を得たことのない人は不幸である。
それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
多く傷つくことは、多く愛した証である。
繰り返しいおう。人は死ぬために生まれ、別れるために出逢い、憎しみあうために愛しあう。
それでもこの世は生きるに価値あり、出逢いは神秘で美しく、愛はかけがえのない唯一の真実であることにまちがいはないようだ。
多く愛し、多く傷ついた魂にこそ浄福を。