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オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」

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美貌の青年ドリアンが人知れず罪を犯してもどった夜、彼の肖像画は奇怪にも口許に残忍な微笑を浮べていた。快楽にふけり醜さを加えてゆく彼の魂そのままに、肖像は次第に醜悪になってゆく。―美貌と若さを保ちつづける肉体の恐ろしい姿に変貌する魂との対比を主題に、ワイルド(1854‐1900)がその人生観・芸術観・道徳観をもりこんだ代表作。
(「BOOK」データベースより)

先日、図書館のOPAC(蔵書検索機)で本を探しておりましたところ、面白い本を見つけまして。

それがオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの画像」岩波文庫。

え?知ってるって?いやいやちょっと待ってよ。多分あなたが知っているのは「ドリアン・グレイの肖像」こっち画像

1文字違うだけでいきなり現れるアドビストック感。

岩波って「画像」なんてタイトルで出してんの?とさらにOPAC検索したところ、2019年にもドリアン君出版されてます。「画像」は1936年出版、翻訳は西村孝次氏。「肖像」の方は2019年、翻訳は富士川義之氏です。

そしたら、ちょっと気になりますですよね。

「あしながおじさん」「そして誰もいなくなった」に続き、新旧翻訳を比べてみようシリーズということで、図書館で「画像」と「肖像」を両方とも借りてきた私です。

閲覧者のニーズは問わないぞ。趣味です、趣味。

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そもそもの話は、若く美しき青年ドリアン君が、絵のモデルになったところから話は始まるのです。

出来上がった肖像画はとても美しく、彼は自身の肖像画に嫉妬の念を抑えきれませんでした。なぜなら彼はいつかは年老いて、肖像画に描かれた美しさを失ってしまうだろうから。

「美を失うことのないものはすべてねたましいんだ。きみが描いたぼくの絵がねたましいんだ。ぼくが失わねばならないものをなぜこれは保つのだろう?過ぎてゆく一瞬一瞬がなにかをぼくから奪い、この絵になにかを与えるのだ。ああ、これが逆でさえあったら!絵のほうが変化して、ぼくはいつまでもこのままでいられるものなら!なんだってこれを描いたんだ?いつかこの絵はぼくをあざけるだろう—-ひどくあざけるだろう!」熱い涙が目にあふれてきた。片手をふりしぼって、長椅子に身を投げると、クッションに顔を埋めた。祈りごとでもするように。
(ドリアン・グレイの画像(西村孝次訳))

「その美しさが死に絶えることのないものなら何にだって、ぼくはやきもちをやきますよ。ぼくはあなたの描いた肖像画にやきもちをやいているのです。ぼくがいつかは失う運命にあるものを、なぜこの絵はいつまでも持ちつづけていられるのですか?過ぎ去ってゆく一瞬一瞬がぼくから何かを奪い取り、何かをその絵に与えるのです。ああ、もしもこれが逆だったら!絵のほうが変化してゆき、ぼくのほうはいつまでも現在のままであり得るとしたなら!あなたはどうしてそんな絵を描いたのですか?いつかその絵はぼくを笑い物にするでしょう—-さんざん笑い物にすることでしょう!」熱い涙が彼の眼ににじみ出た。彼は掴まれていた手を振り払うと、寝椅子の上に身を投げ出して、まるで祈祷の文句でも唱えているように、クッションに顔を埋めた。
(ドリアン・グレイの肖像(富士川義之訳))

ナ、ナルシス…。

なにやってんだコイツ、というのが率直な感想ではあります。なにこのナル坊や。長椅子に横たわってクッション抱えてる場合じゃないよ。

「画像」と「肖像」を比べると、ナル気質の気持ち悪さは「画像」に軍配があがります。そして「画像」の本文中ではドリアン君の肖像画は「絵」もしくは「肖像画」と記されていて、期待していたアドビストック感がなくって私もクッションに顔を埋めちゃうわ。

さてさて。そのナルシス・ドリアン君、とある女性と出逢い恋におちました。

舞台女優だったシビルちゃん。ドリアンは舞台で輝く彼女の姿に魅了されて、2人はお付き合いすることとなりました…が、シビルの華やかな舞台女優のイメージを愛していたドリアンに対し、シビルの方は舞台よりもLOVE。恋におちたら一直線、スポットライトなんていらないわ貴方に尽くしていきたいの、と、古風な考えをもって女優を引退してしまったのであります。

で、ドリアン君は冷たく「フツーの女になったお前なんて魅力ねーわ」と捨てるのでございますよ。リアルでもよくありそうですね、こんなこと。

泣いてすがるオナゴを打ち捨てて家に帰ったドリアン君。飾ってある自身の肖像画を見ると、何やらその絵は印象が少し変わっておりました。

目をこすって、絵に近寄り、もう一度よく調べてみた。絵そのものをのぞきこんでもなんら変わったしるしもない。そのくせ表情が一変していることは疑いの余地がない。単に自分の気のせいばかりではないのである恐ろしいまでに明白な事実だった。
–(中略)–
確かにその願いはかなえられたのではなかろうか?そんなことはありえない。考えるだけでも奇怪なことだ。しかも、やはり、眼前にはこの絵がある。口もとに一抹の残酷さをたたえて。
(ドリアン・グレイの画像(西村孝次訳))

彼は眼をこすり、絵の傍に近寄って、それをもう一度しげしげと見た。実際の絵を覗き込んでも何らの変化のしるしもないが、それでもやはり全体の表情が変わっていることには疑いの余地もない。単に眼の錯覚ではなかった。事態は恐ろしいほど明らかだった。
–(中略)–
確かに自分の願いが満たされるということなどあるはずもないではないか?そのようなことは到底不可能なのだ。考えるだけでもぞっとするほどだ。だが、しかし、彼の眼前には、口もとに少しばかり残酷さの表情をたたえた肖像画があった。
(ドリアン・グレイの肖像(富士川義之訳))

女1人捨てたくらいで大袈裟なもんだと思わないでもないけれど、やっぱり翻訳は「画像」に軍配が上がるなと思った私。「しかも、やはり、眼前にはこの絵がある。口もとに一抹の残酷さをたたえて。」とか良くないっすか?

で、その後もドリアン君は悪行を重ねて放蕩の限りを尽くす…と「ドリアン・グレイの肖像(あるいは画像)」のあらすじ紹介には書いてあったりするんですけど、令和の今となってはそんな大した悪行でも放蕩でもありません。まぁ人1人殺しちゃったりするけど、たいしたこたぁない(いや大したことではある)

どちらかというとドリアン君が恐れているのは、劣化。年老いてお肌ツヤピカお目目キラキラの輝きを失ってしまう方が、不道徳な生活よりもよっぽど恐ろしい。

相変わらずナルシス・ドリアン、ブレない男です。

いっときかれは自分とこの絵のあいだに存在するあの恐ろしい感応が消えてくれるように祈ろうかと考えた。祈りに答えてこの絵は変わってしまったのだ。おそらく祈りに答えて変わらずにいてくれるかもしれない。しかも、すこしでも「人生」について知っている者なら、いつまでも若くていられるような機会をだれがみすみす逃したりするだろうか?
–(中略)–
しかし理由などたいしたことではない。祈りによって恐るべき力をためすような真似はもう二度とすまい。もしこの絵が変わることになっているなら、変わるまでのことだ。それだけの話だ。こまかく探索する必要などあろうか?
というのはじっと絵をながめることにこそ真のよろこびがあるからである。
–(中略)–
そして冬がこの絵に訪れても、自分はやはりまさに夏に移ろうとしている春にいるのだ。いつのまにか血がその顔から失せて、あとには鉛のような目をした青ざめた白亜の仮面が残るときでも、自分は輝くばかりの青春の魅力を保っているだろう。自分の美しさの花一輪さえ色褪せはしないであろう。自分の生命の脈搏ひとつさえいささかも弱まりはしないであろう。ギリシア人の神々のように、たくましく、敏捷で、喜びに満ちているだろう。
(ドリアン・グレイの画像(西村孝次訳))

しばらくのあいだ、彼は自分とこの肖像画とのあいだに存在する恐ろしい共感が消え失せるようにと祈りたいと思った。この肖像画は祈りに応じて変化した。たぶん祈りに応じていつまでも変化しないままであるかもしれない。けれども、<人生>について多少なりとも知っている者が、いつまでも若くありたいという希望を捨てることなどあり得ようか?
–(中略)–
だが、理由などおよそ重要ではない。彼はもう二度とふたたび祈りによって何か恐ろしい力を験すこともないだろう。もしも肖像画が変化するものならば、変化させておけばよいのだ。それだけのことなのだ。いちいち細かく調べたところでどう仕様もないではないか?
というのも、変化を眺めることのうちにこそ本当の快楽があるのかもしれないのだから。
–(中略)–
この肖像画に冬が訪れたときでも、自分はまだ春がいまにも夏に入りかけているような地点にとどまることができるだろう。その顔から血色が消え失せ、どんよりとした眼つきをした青白い白堊色の仮面があとに残るばかりとなっても、自分は少年時代の輝きを維持することができよう。自分の花のような美しさが少しでも色褪せることなどよもやあるまい。自分の生命の脈動は一つとして弱まるまい。ギリシア人の神々のように、自分は力強く、軽やかで、歓喜に浸っていよう。
(ドリアン・グレイの肖像(富士川義之訳))

この翻訳箇所でもやっぱり「画像」に軍配。単純に私は西村孝次さんの訳が好きなのですね。

「そして冬がこの絵に訪れても、自分はやはりまさに夏に移ろうとしている春にいるのだ。」とか素敵。夏に移ろうとしている春ですって。若さね、若さ。

この後ドリアン・グレイ青年がどんな最期を迎えるのか、「ドリアン・グレイの肖像(あるいは画像)」はどんなラストなのかはここでは言及しません。ネタバレ回避ってのもありますが、知りたい人はググって頂戴。多分そこらへんに転がってるわ。

そんなことより私は、結局本文中にただの一度も「画像」の名称が登場してこなかったという事実にうちのめされている訳ですよ。じゃあなんでタイトルに「画像」ってつけたのよ。どうしてくれるのよ宙に浮いた私のアドビストック感

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