つい先日「ほんのむし」で私、こんなことを書きましたよね。
きっと数年後か数十年後、どこかの翻訳者さんが新たに「あしながおじさん」を訳したら、きっと私はその本を買うのでしょう。
で、きっとこの記事に4作目の当該文章を貼り付けて、きっと最後にはトキメいちゃったりするのです。
そして本日、4冊目をアップしちゃったりして。
…数年後か数十年後どころじゃなかった!
まだ、平成すら終わってなかった!
しつこいのは重々承知。でも仕方がないんです、私の愛する「あしながおじさん」を、なんとあの谷川俊太郎が翻訳しているのを見つけてしまったのですもの。
しかも挿絵を『旅の絵本』の安野光雅が描いているのを見つけてしまったのですもの。
この調子で行くと、この「ほんのむし」が“あしながおじさん翻訳比較サイト”に変貌していくんじゃないかと恐れている皆さん。君だけじゃない、わたし自身も同じ恐れを抱いてる。
いや、やらんけどね。さすがにな、ニーズが無いことはさすがの私も分かってる。
閲覧者のニーズよりも、優先されるは自己満足。
谷川俊太郎さんは、皆様もご存じですよね?詩人&絵本作家。その他もろもろ。
「しんでくれた」の絵本を、かつてこのブログでも取り上げたことがあります。
国語の教科書でも「生きる」や他の詩を、きっと殆どの人が読んだことある筈。
その谷川俊太郎が「あしながおじさん」を訳したと知ったらな、そりゃな、比較せねばなるまいて。
以上、言い訳説明終わり。では参りましょう。
いざ、検証!
假りに鏡で作った大變大きな空洞の珠があつて、あたし達がその中に坐つてゐるとしたら、あたし達の顔は何処で映らなくなるでせう、そして背中はどの邊から映り始めるでせう?この問題は、考へれば考へる程解らなくなります。あたし達が閑な時間でも、どの位深奥な哲学的考察に耽つてゐるかよくお解りでせう!
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)
ひじょうに大きな中空の球体があって、それが鏡でできていて、その中に人がすわったとします。顔が映るのは鏡のどのへんまでで、どこから背中が映るでしょうか?この問題は、考えれば考えるほどわからなくなります。わたしたちは、ずいぶん深遠な哲学的考察に余暇を使っていますでしょう!
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
鏡でできたとても大きな中空の球体があって、そのなかに座っているとします。どこまで顔が映って、どこから背中が映るでしょう。この問題は考えれば考えるほどわからなくなります。わたしたちが余暇の時間にいかに深い哲学的思索を行なってているか、おわかりになるでしょう!
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
かりに鏡ではりつめた中空の大球体があるとして、そのなかにすわっていたとする。どのへんで顔がうつらなくなり、どのへんから背中がうつりはじめるか?この問題は考えれば考えるほど、こんぐらがってきます。わたしたちがどんなに深刻な哲学的思索でひまつぶしをしてるか、よくおわかりでしょう?
(谷川俊太郎 訳「あしながおじさん」)
上記の引用文ではさほど目立ちませんが、谷川バージョンでまず目に付くのが「~だ。」の語尾が多いこと。これねー、読み始めのうちは、非常に違和感を覚えます。
あとはひらがなの多さね。そりゃ児童文学ジャンルですから、大人本に比べてひらがなが多いのも分かりますが、それにしても谷川バージョンのひらがなの多さよ。
まえにはいつもわたしはうきうきして、のんきでへっちゃらでいられた、だってかけがえのないものなんかなにももってなかったから。
(谷川俊太郎 訳「あしながおじさん」)
他の翻訳者さんバージョンで多発する「~ですわ」「~ですのよ」といった、上品かつザマス系の言い回しと比べると、雑駁というか、乱暴というか…。
とはいえ、読み進めるうちにその違和感はだんだん消えていきます。
これまでのバージョンとはまた違った、ちょっと雑駁で、かなり気の強そうな、そんなジュディも、また素敵。
ヂャーヴィー坊ちゃんは社會主義者よ——たぶんあたしは、當然社會主義者なんでせう。あたしは無産階級の生れですもの
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)
あの人は社会主義者ですのよ。——たぶんわたしは生まれながらに社会主義ですわね。無産階級ですから。
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
あの人は社会主義者ですのよ。——たぶん、わたしは生まれながらの社会主義者でしょう。プロレタリア階級の人間ですから。
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
あのね、わたしも社会主義者になりそうです。かまわない?おじさま。無政府主義者とはぜんぜんちがうのよ、爆弾でだれかをふっとばすなんて主義じゃないわ。たぶん、わたしはとうぜん社会主義者になるべき人間です。プロレタリアートのひとりですから。まだどんな社会主義者になるかはきめてないの。日曜日によく研究したうえで、つぎの手紙でわたしの主義を宣言するわ。
(谷川俊太郎 訳「あしながおじさん」)
ね?こんなジュディ像もまた、違った魅力があるでしょ?
快遊船とか自動車とか、叉は子馬のやうな氣の利いたものにお金を使はないで、いろんな氣狂ひじみた改革事業に捨てて了ふ
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)
気ちがいじみた革新的なことには何にでもすぐお金を投げ出すくせに、ヨットとか、自動車とか、ポロ用の仔馬とか、そんな上品なものにはすこしも使いませんの——
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
あの人は、ヨットや自動車やポロ競技の馬のようなまともなもののかわりに、ありとあらゆるおかしな改革に無駄なお金を使ってしまうとおっしゃいます。
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
かれはまたヨットとか、自動車とか、ポロの小馬とか、そうしたちゃんとしたものにお金をつかわずに、いろんなへんてこな改革事業にお金をなげだすんですって。
(谷川俊太郎 訳「あしながおじさん」)
出版業界「氣狂ひ」「気ちがい」自粛問題。岩本正恵さん訳で問題ありそうな文言が消えた話のは前回ご報告したとおりですが、谷川バージョンではどうなったのかというと、「へんてこな」と綴られております。
この先の未来、出版業界が図書館戦争的状況に突き進んだとしたら「おかしな」も「へんてこな」も、いつか規制される日がくるのかな?
——さてお立会い。「あしながおじさん」で何を比較したしたいかって、そりゃあアレですよ。ジュディがあしながおじさんへの手紙で、当のあしながおじさん(=ジャービー坊ちゃま)への恋情を切々と訴えるシーン、というか、手紙。
「ロマンチックが止まらないbyC-C-B」を口ずさみながら、怒涛のロマンチックを3連続で参りましょう。
それからあの人は——。ああ、そうですわ。あのかたはああいうかた。もうどう言っていいかわかりません。彼がいないと、わたしはただ寂しくて、寂しくて、寂しくて。世の中全体が空虚で苦悶しているようです。月の輝きが憎らしいですわ。なぜといって、その美しさをいっしょにながめる彼がわたしのそばにいないからです。でも、あなたもきっとだれかを愛されたでしょうから、こんな気持ちはわかってくださいますわね?だれかを愛されたことがあれば、説明する必要がありませんし、もし愛されたことがなければ、わたしには説明できませんわ。
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
そしてジャービーさんは——そう、ジャービーさんなのです!わたしはジャービーさんが恋しくて、恋しくて、恋しくてたまりません。世界中が空っぽで、痛むほどの悲しみに満ちているようです。わたしは月の光が嫌いです。美しいのに、一緒に見るジャービーさんがいそばにいないからです。でも、おじさまもだれかを愛したことがおありでしょうから、おわかりでしょう。そうなら、説明する必要はありませんね。もし、そうでなければ、わたしには説明できません。
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
そしてあのひとは——ああ、もう!あのひとはまさにあのひと、あいたい、あいたい、あいたいんです。世界じゅうががらんどうで、ずきずきしてるみたい、月の光もきらい、美しいのに。あのひとはここにいない、わたしといっしょにながめてくれない。あなたもきっとだれかを愛したことがおありでしょう。だからわかってくださるでしょう?もしあったら、説明する必要ないわ、もしなかったら、説明しようったってできない。
(谷川俊太郎 訳「あしながおじさん」)
寂しくて、寂しくて、寂しくて。
恋しくて、恋しくて、恋しくてたまりません。
あいたい、あいたい、あいたいんです。
私は「あしながおじさん」の原文を読んだことありませんが、この箇所、いったい原文ではどうなっているんでしょうね?
ご存じの方いらしたら教えてください。内容は同じようで、かなり違う。
翻訳って、不思議ー。
谷川バージョンのジュディちゃんは、これまでのジュディちゃんに比べてちょっと“おきゃん”な感じで、それはそれで宜しゅうございました。
ですがねえ。
「あしながおじさん」を18禁に入れてもおかしくないんじゃないだろうかと秘かに考えている私としては、谷川ジュディ像にエロスが足りない点だけは不満足。
だってほら大学生ですしね。うら若い乙女ですしね。アダルティな大人の色香はなくとも、ひそやかかつ瑞々しい少女の色香はかもし出して欲しいのですよ。
そこで、いろいろと検討した結果。
ぜひとも次回の「あしながおじさん」翻訳を、桜庭一樹さんにお願いできないでしょうかと考えまして。
いかがでしょう桜庭一樹さん?貴女が「あしながおじさん」を翻訳したら、ジュディの数々の手紙の文面から、固い蕾が花開く瞬間のエロスが立ち上ってくると思うのですけど。
次のお仕事としていかがでしょうか。かなりマジです。本気でお願い。真剣に読みたい。少なくともひとりは読む。
他の需要は、知らんけど。