千石どりの武家としての体面を保つために自分は極端につましい生活を送っていたやす女。彼女の死によって初めて明らかになるその生活を描いた『松の花』をはじめ『梅咲きぬ』『尾花川』など11編を収める連作短編集。厳しい武家の定めの中で、夫のため、子のために生き抜いた日本の妻や母の、清々しいまでの強靱さと、凜然たる美しさ、哀しさがあふれる感動的な作品である。
(新潮社内容紹介より)
ええのう。
山本周五郎はええのう。
夫を支える為に尽くす妻の姿を描く…というこの短編集は、『一億総活躍社会』(しかしこの言葉も既に“死語の世界”となりつつあるな)の安部総理の提言からは逆行するでしょうか。
それとも、男女同権を目指すジェンダー論者が目を吊り上げて怒るでしょうか。
それは今にはじまった話ではありません。
「小説日本婦道記」収録短編が発表された昭和20年前後の当時でも『オンナは黙って我慢してろってこと?!』という批評の声は多かったようです。
で、山本周五郎さんはこんな風に反論しております。
「あれでは朝日新聞の扇谷君ともやりあったことがある。『日本婦道記』では、女性だけが不当な犠牲を払わされている、これを現代の女性が読んで、不満を感じるのはノーマルだという。しかし僕は婦道記のなかで女性だけが不当な犠牲を払っているのは、一編もないはずだ、あるならいってみろといった。僕は、女性だけが不当な犠牲を払っているような小説は書いたことがない」
周五郎ちゃんの言いたいこともよく分かる。
しかしながら、収録短編を読んでパッと見の印象では、女性が“不当”とも思われそうな艱難辛苦を重ねているのも確かです。
例えば。
『武家の奥はどのようにつましくとも恥にはならぬが、身分相応のご奉公をするためには、つねに千石千両の貯蓄を欠かしてはならぬ』と、夫には上物を着せても自分はつましくボロを着る「松の花」のやす女。
例えば。
『妻が身命をうちこむのは、家をまもり良人に仕えることだけです。そこから少しでも心をそらすことは、眼に見えずとも不貞をいだくことです』と、息子の嫁に習い事を辞めさせる「梅咲きぬ」の姑かな女。
例えば。
『この家のほかにわたくしには家はございません、どうぞお高をおそばに置いて下さいまし、よそへはお遣りにならないで下さいまし』と、富裕な実家から貧乏な育ての父の家に戻り叫ぶ「糸車」のお高。
例えば。
『武家に生れた男子はみなおくにのために、身命を賭して御奉公しなければならない、はじめからお預り申した子に親身も他人もあると思いますか』と、継子と実子との差に悩む知人の娘を叱る長橋のおばあさま。
例えば。
主家の危機を助けるために、白痴のフリを23年間もの間続けた「二十三年」のおかや。
いずれも、我慢・忍耐・辛抱を美徳とする話が中心の「小説日本婦道記」
ではなぜ、周五郎ちゃんは『僕は、女性だけが不当な犠牲を払っているような小説は書いたことがない』と言ったのでしょう?
“不当”かどうかって、相対的なものですよね。
簡単に言えば『アタシばっかり損してあんたズルい』の気持ちが“不当”に繋がるわけです。
林真理子「不機嫌な果実」の主人公麻也子が「いつも私ばかりが損をしている」と、夫婦関係に不満を感じるとかね。
そして、相手があるからこそ“不当”と感じる。相手に対して受身の姿勢があればこその『当or不当』なのです。
「小説日本婦道記」に登場する女性達は、その伝でいけば“不当”ではありません。
なぜなら受動的な犠牲ではなく、能動的な犠牲だから。
彼女たちは自らの意志によって、夫・家・主君に仕えることを選択しています。男の侍魂と同じように、女の妻魂も峻烈。
自分が思い定めた道だから、一途にもなれるし、苦労にも耐えられるし、不当な犠牲とは感じない。
と、いうことを周五郎ちゃんは言いたかったのではないでしょうか。
だからだね。
この「小説日本婦道記」を楯にして、男性が妻に『お前もこれくらい献身的な妻になれよ』って言ったってムダよ。
献身的に仕えるかどうかは、当の女性自身が能動的に決めないと“不当”になっちゃうからね。
献身的に仕えたくなるくらい、男を磨いてからお言いあそばせ。