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酒井順子「私は美人」

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女なら誰もがなりたい「美人」。しかし、そもそも美人とは何か。性別、年齢、地域はもちろん一人の人間の主観と客観の間においてさえ微妙に揺れる美人観。美人を目指さずにはおれない女性たちの行動と心理に潜むその本質を独特の観察眼で喝破し、ユーモアで包んで読ませる、身につまされる美人論。
(「BOOK」データベースより)

著者の酒井順子さんは、かつて大手広告代理店の博報堂に勤務されていたことがあります。
『働かないグータラOLだった』とは自称されていますが、実際はなかなかのやり手だったんではないかと想像しています。
なぜなら、酒井順子さんの考え方やモノの見方には、マーケティングと共通するものを感じるので。
 

例えばこの本。「私は美人」では…
 

・人は“美人”という存在に何の価値を見出すのか → 美人のベネフィット

・各ジャンルの“美人”は、いかなる層が美しいと評価するのか → 美人のセグメーション

・“美人”が“美人”と定義される為の造形以外の付加価値 → 美人の差別化
 

なーんてことが書かれています。あっ、大丈夫よ。これ経済学の本じゃないから。ご心配の向きには具体例を引用しましょうか。
 

? 美人のベネフィット

「人間、顔じゃない。心だ」
という昔よく聞かれた励ましの言葉は、そのあまりの空虚さ故に、誰も言わなくなった。
見回してみれば、小説家も、音楽家も、スポーツ選手も、料理研究家も、人気者になっている人は皆、美人。
それは、「人間におけるデザイン性」が重要視されている、ということになろうかと思うのです。

 

? 美人のセグメーション

その引けた腰をガッチリ確保するのが、センスレス美人です。昔の吉永小百合や薬師丸ひろ子のような人を想像していただければよいのですが、モッサリした格好をした垢抜けない美人というのは、異性を最も安心させる存在。
—(中略)—
「あの子は、自分がきれいだっていうことに気付いていない」などと、ホクホクしてセンスレス美人に近付いていくのです。

 

? 美人の差別化

クラシックな官能小説においては、葬儀が終わった晩に喪服女性が陵辱される、といったシーンが見られるものです。この時、陵辱される喪服女性は必ず遺族の立場にいる人でなければなりません。単なる葬儀の参列者とか、葬儀屋さんとか、受付の手伝いとして喪服を着ている女性では、陵辱される意味がない。夫を亡くしたばかりの未亡人を遺影の前で……という時に、最も官能効果が高まるのです。

平安の昔はおたふく顔が美しいとされていたり、世界中の国ごとに美人の基準が違っていたり。
“美人”という存在が、各々の立ち位置によって異なっているうのは、皆様もご承知の通りですね。
 

酒井順子さんは、現代日本で大方の人が“美人”に対して無意識に思っている本音、つまりコンシューマー・インサイトを文章で明示化しているのです。
いやはや、非常に赤裸々に。いやはや。
 

という訳で、酒井順子さんはもし博報堂に残っていたとしても、非常に優秀なマーケターに成り得たと思うのですが。
読者としては、一企業で専有されずにすんで良かった良かったと胸を撫で下ろす処ではありますけどね。いかがでしょう酒井さん。出世のチャンス、逃したと思います?

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