ゲームブックの原作募集に応募したことがきっかけでヴァーチャルリアリティ・システム『クライン2』の制作に関わることになった青年、上杉。アルバイト雑誌を見てやって来た少女、高石梨紗とともに、謎につつまれた研究所でゲーマーとなって仮想現実の世界へ入り込むことになった。ところが、二人がゲームだと信じていたそのシステムの実態は…。現実が歪み虚構が交錯する恐怖。
(「BOOK」データベースより)
バーチャルリアリティを題材にした映画や小説は、今では沢山ありますよね。
映画ならば「マトリックス」然り「アバター」然り。この間テレビで放映していた名探偵コナンの映画でも、仮想空間の中に入り込むゲームでコナン君が謎解きしてました。
人工的に作り出したサイバースペースを、人間が実際のもののように知覚できるようにするという仮想現実のアイディアと技術は以前から存在したものの、“バーチャルリアリティ”という単語が発生したのは1989年だそうです。
そして、バーチャルリアリティ元年と言える1989年、同じ年に発刊されたのが、やはり仮想現実を題材とした「クラインの壺」。
岡嶋二人、先鋭的じゃね?!
主人公は、とあるゲームの原案を書いた原作者として、新型ゲームのプレイモニターとなります。
そのゲーム『ブレイン・シンドローム』は、“クライン”という、バーチャルリアリティの最新式技術を使用したマシーンの開発も兼ねているため、産業スパイなどへの機密漏えいを恐れたトップ・シークレットで事は行われます。
生まれて初めて体験する、仮想空間の世界。主人公ともうひとりの体験モニターの梨紗は夢中になりました。
このゲームが市場に出回ったら、世界が変わるんじゃないだろうか。その最初のモニターである自分たちは、何て運が良いんだろう。
事務所にかかってきた1本の電話から、舞台は一転します。
嘘の交通事故。ポケットから消えたピアス。
アパートにいた梨紗の友人。出合えないふたり。車の窓ガラスから見えた高速道路。
ゲームの中に割り込んでくる、謎の声。
——戻れ
——コントロールできるうちに、逃げろ
現実の世界と仮想現実の世界がごっちゃになって、どちらがどちらだかわからなくなる…というストーリー自体は、2016年の今ではさほど目新しいものではないかもしれません。
面白いのは、主人公が翻弄されていく様。主人公がいま居るのは、現実なのか?バーチャルなのか?いま腕に抱いている女性の身体は、本当に生身の肉体なのか?
鏡には、僕が映っている。
でも、自分が鏡の外にいて、映っている鏡像が内側だなどと、どうして断言できるのか?自分の瞳を直接見ることは、誰にもできない。自分の瞳の色を知るには、鏡を覗くしかない。だとすれば、瞳が存在しているのは鏡の向こう側だけなのかもしれないじゃないか。
その疑問は、仮想現実というモノを知った全ての人が悩む気持ちなのかもしれません。
2016年の現在では、『日本バーチャルリアリティ学会』なるものが存在しているのですよ。この「クラインの壺」から7年後の、1996年に設立された団体です。
そこの公式ウェブサイトの中に、こんな記述がありました。
そもそも人間が捉らえている世界は人間の感覚器を介して脳に投影した現実世界の写像であるという見方にたつならば,人間の認識する世界はこれも人間の感覚器によるバーチャルな世界であると極論することさえできよう.—(中略)—人が何をバーチャルと思うかも重要な要素である.つまり人が何をその物の本質と思うかによって,バーチャルの示すものも変わるのであると考えられる.
(日本バーチャルリアリティ学会「バーチャルリアリティとは」より)
「クラインの壺」の主人公は、バーチャルと現実の区別がつかなくなって、ラストで死を賭して世界の在り処を確かめようとするけれど。
『人間の認識する世界はこれも人間の感覚器によるバーチャルな世界』を是とするならば、主人公が存在しているのは“どこの世界か”なんて、意味の無い問いなのかもしれません。
それが、僕に残された最後の方法だ。
ここが、壺の内側か外側か、僕が知る手段はなにもない。風呂の中で手首を切ることだけだ。
その後がどうなるのか、僕は知らない。結果を見ることすらできない。壺の内側なら、ゲーム・オーバーになるだろう。外側なら——。
主人公、ちょっと待て。そのカミソリを滑らせるのをちょっと待て。
壺の内側でも、外側でも、どっちだって良いんだ。どちらにしても世界がバーチャルならば、内側も外側もくるりとまわって繋がったクラインの壺だから。