砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める部落の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のなかに、人間存在の象徴的な姿を追求した書き下ろし長編。20数ヶ国語に翻訳された名作。
(「BOOK」データベースより)
——罰がなければ、逃げるたのしみもない——
上記は「砂の女」の冒頭に記されている一文です。
つまり、そういう話よ。
虫好きの男が、自ら虫になって、蟻地獄に落ちる話。1行であらすじ終了。仕事、はっやーい。
「でも……」女は自分の肘のあたりに視線をおよがせ、しかし意外によどみのない声で「もう、お分かりなんでしょう?」
休暇中に砂丘にやってきた男が、一晩の宿を求めて一軒の民家を紹介されます。
砂丘の稜線に接した崖から縄梯子で降りた、女の一人住まいのボロ屋。どうせ一晩限りの宿でもあり、迎えた女は客人が来て嬉しくてたまらない様子。
これもひとつの旅のエピソード、と、男は眠りにつきました。
それが、蟻地獄のはじまり。
朝になった男は、上に昇る縄梯子が撤去されていることに気付きます。
男が泊まった民家は村を砂から守る防砂堤の役割を持っていて、降ってくる砂を常に掻き出していないと村全体が砂に埋もれてしまう、その労働力として捕らえられたのです。
もちろん男は抵抗し、脱出を試みますが、
「でも、巧くいった人なんて、いないんですよ……まだ、いっぺんも……」
村に10件ほどある海に面した民家では、男手や住み手がいなくなると、どこからかやってきた人間を住まわせて、砂を掻き出す役割をさせる。
これまで何人もの人が『理由なき失踪』をしたのか、砂の女が知る由もない。
先に結末言っちゃいますね。そもそも「砂の女」最初の1ページ目から、結末は提示されています。
男の家族は、男がいなくなってから7年後に失踪人の申し立てをして、受理されます。
7年後の昭和37年10月5日、男“仁木順平”は、失踪者として審判されます。
最後の2ページ、家庭裁判所の資料が提示されて、はじめて男が“仁木順平”であることが分かるのですが、男が暮らす砂の底の家と、その部落では、男の名前なんて意味のない記号にしかすぎません。
アリジゴクの穴に落ちた虫に名前がいらないのと同じように。
男は、どうして逃げなかったのかな?
学生の頃に「砂の女」をはじめて読んだ時には、それが一番の謎でした。
一度は崖を昇って、逃げ出したこともあるんです。野犬に襲われて失敗したけど。
ストライキを起こしたこともあるんです。水の配給を停止されて渇き責めにあって失敗したけど。
でも「砂の女」のラストで、男は地下水の汲み上げ装置を自作して、脱出するための希望が見えていたはずなのです。
べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。それに、考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。
だけど、7年たって“仁木順平”の失踪宣告を受けるに至っても、男が戻ってくることはなかった。
おそらくは、地下水の汲み上げ装置についても暴露して、脱出成功への手立ても自ら封じてしまったであろうかと。
そして思い出す、冒頭の一文。
——罰がなければ、逃げるたのしみもない——
従属に喜びを見出すマゾヒスティックな快感と言うべきか。
それともチキンレースの焦燥感の快楽か。
『俺はまだ本気出してないだけ』で一生本気を出さないニートと同じ発想と言う気がしないでもない。
学生の頃の茫漠とした謎とは違う意味で、やっぱりわからないわー。
でも、そのモゾモゾ、モヤモヤする気持ちこそが「砂の女」の真髄なのかもしれませんね。
男の気持ちが本当にわかっちゃう人がいたら、それはそれで、怖いなあ。