家族という、確かにあったものが年月の中でひとりひとり減っていって、自分がひとりここにいるのだと、ふと思い出すと目の前にあるものがすべて、うそに見えてくる―。唯一の肉親の祖母を亡くしたみかげが、祖母と仲の良かった雄一とその母(実は父親)の家に同居する。日々のくらしの中、何気ない二人の優しさにみかげは孤独な心を和ませていくのだが…。世界二十五国で翻訳され、読みつがれる永遠のベスト・セラー小説。泉鏡花文学賞受賞。
(「BOOK」データベースより)
「キッチン」が出版されたのは1988年。
前年の村上春樹「ノルウェイの森」とあわせて、一時期ブームになりましたねえ。みんな読んだ読んだ。ハルキとばななを求めて田んぼを襲うイナゴの様に本屋に群がった。
「読んだ?」「読んだ」が会話の通行手形のようになっていた当時の感覚は、ちょっと今では思いつかないですねえ。村上春樹「1Q84」も本屋に駆け込んだ人は多かれど、あの当時に起こったムーブメントとまでは言い難い。
あれからン十年。すっかり「ノルウェイの森」も「キッチン」も忘却の彼方に過ぎ去っていたところ。
先日、娘の中学校クラスのママランチ会がありまして(ママ社交界も大変だ)テーブルの話題が、何故かLGBTの話になったのですね。
で、ひとりのママさんが。
「でも昔から居たじゃない、ほら『キッチン』のおかあさんとか」
ン十年の時を超えて甦る「キッチン」!
同年代の娘を持つ、おそらくは同年代のママさん。LGBTの話題でまず「キッチン」が思い浮かぶところに、その昔のブームと擦り込みの強さを思い知った私です。
「どうも私たちのまわりは」私の口をついて出たのはそんな言葉だった。「いつも死でいっぱいね。私の両親、おじいちゃん、おばあちゃん……雄一を産んだお母さん、その上、えり子さんなんて、すごいね。宇宙広しといえどもこんな2人はいないわね。私たちが仲がいいのは偶然としたらすごいわね。……死ぬわ、死ぬわ。」
「キッチン」は、肉親と住まいを失くした主人公の みかげ が、祖母の知人かつ同じ大学に通う雄一と、その“おかあさん”の住む家の居候になるところから話が始まります。
“おかあさん”のえり子さんは、戸籍上の性別はおとうさん。先ほどのママさん発言に出てきたLGBTの区分だとTのトランスジェンダーにあたりますが「キッチン」は別にLGBTを主眼とした小説ではありません。
まあ、話の流れとしてはえり子さんがお父さんでもお母さんでもどっちでも良いとも言える。大事な人ではあるけどね。
吉本ばななの「キッチン」と村上春樹「ノルウェイの森」共通していたテーマは、死と再生。
死と再生。死と再生。
周囲皆殺しの勢いで登場人物がバッタバッタ死んでいく中、遺されておいてけぼりにされてしまった人間が、生き続けようとする過程を描く、物語です。
主人公の みかげ が世界で一番好きな場所は、台所。
生きる為に必要な衣・食・住の「食」を司る台所=キッチンは、死とは対極にあります。
人間食べなきゃ生きていけない。逆に、食べていければ生きていける(ような気がする)
孤独でも、失っても、消耗しても、台所=キッチン=生と家庭の象徴があれば、いつか立ち上がって再生できる。主人公の みかげは、その強さをきちんと持っています。
私はそうして楽しいことを知ってしまい、もう戻れない。
どうしても、自分がいつか死ぬということを感じ続けていたい。でないと生きている気がしない。だから、こんな人生になった。
闇の中、切りたった崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息をつく。もうたくさんだと重いながら見あげる月明かりの、心にしみ入るような美しさを、私は知っている。
台所という生の象徴を愛し、生の象徴に愛されている みかげだから、母(本当は父)を亡くして同じ喪失感に苦しむ雄一を引っ張りあげることができます。
1杯のカツ丼で。
びっくりするほど美味しい、夜の闇をタクシー飛ばしても食べさせたくなるくらい、美味しい1杯のカツ丼で。
「どうして君とものを食うと、こんなにおいしいのかな」
私は笑って、
「食欲と性欲が同時に満たされるからじゃない?」と言った。
「ちがう、ちがう、ちがう。」
大笑いしながら雄一が言った。
「きっと、家族だからだよ。」
もし大事な人を亡くした経験があって、その喪失感から抜け出せないようならば「キッチン」を読んでみてください。
闇の中で切りたった崖っぷちを歩くような孤独を感じても、人は必ず、ゆっくりと再生していくことができます。
その再生の手助けを、ほんのちょっとだけこの本は後押ししてくれるかもしれない。みかげが雄一を、ほんのちょっとだけ引っ張りあげてくれたように。