私達は、いかにしておばあさんになるか。おばあさんが持つ力とは、何なのか。偉大なるおばあさん達に学ぶ。全ての女性必読の書。
(「BOOK」データベースより)
酒井順子、ついにおばあさんの領域まで行ったか!
思い起こせばン十年前、酒井順子は高校生ながら雑誌「オリーブ」にコラムを寄せていて、世のオリーブ少女達の羨望の眼差しを一手に受けていたものです。
酒井順子よりちょっと年下の私は、実際には“マーガレット酒井”さんのコラムを読んでいませんでしたが、それでも『あの』「オリーブ」に寄稿していた女子高生というのは特別なイメージがあります。
ああ、オリーブ。ガーリーとリセエンヌとアニエスb.の楽園よ。
大学に入って女子大生になった時には、女子大生ブームの真っ只中。
就職したあたりではバブル真っ盛り。
酒井順子が年齢を経るにつれ、同世代向けの女性ファッション誌が次々と発刊されていくのは今でも同じ。
団塊ジュニアとほど近いという数の利点もあり、バブル世代は、常に時代のセンター感を持っていた世代です。
その酒井順子が、近年では「おばさん未満」からはじまり、中年女性のあれやこれやを多く綴っていくようになりました。
著作のネタも金閣寺とか、源氏物語とか、日本の古来風俗的な題材を取り上げたものが増えてきている…あれか?彼女が狙うのは瀬戸内寂聴ポストか?
そしてとうとう酒井順子は、新たなるステージへ。
それが「おばあさん」
いや、もうそっち行っちゃうの?まだ流石に早かねーか?
私の世代がおばあさんになる頃、すなわち高齢化社会がとっぷり進んだ時代は、おばあさんというだけで労ってもらえるわけでもなければ、かわいいと思ってもらえるわけでもない世の中になっているのではないでしょうか。つまり、おばあさん間の競争が激化してくるのです。
さらに私は、一つの危惧を持っています。それは、「おばあさんのおじいさん化」バリバリと働き、地域社会との交流も持たずに一人で生きてきた私達世代の女性は、おばあさんになった時、今のおじいさんと同じような危機感を抱くのではないか、と。—(中略)—アイデンティティであった仕事がなくなり、誰からもちやほやされなくなり、近くに知り合いもいないとなった時、おばあさんはどのようにして生きる意味を見いだすのでしょうか。
来るべき「おばあさん時代」を前に、来し方の数多の「おばあさん」の姿から良き「おばあさん」像を探ろう。というのが、この「おばあさんの魂」の主旨であります。
予習って大事だねby四谷大塚。
という訳で、この本には様々なおばあさんが出現します。
酒井順子本人の祖母(無名)をベースにして、森光子、瀬戸内寂聴、白洲正子、がばいばあちゃん、マルグレット・デュラス、オノ・ヨーコ(有名)etc.etc.
えーっ!オノ・ヨーコまで「おばあさん」カテゴリに入っちゃうの?!と、私なんかすれば人物チョイスにびっくりですが、確かになあ、考えてみれば83歳だもんなあ。立派なおばあさんの域か。
さらには実在の人物のみならず、いじわるばあさんとか楢山節考とか、フィクションもしくは伝承のおばあさんまで。
架空実在かかわらず、女性も長年生きれば「おばあさん」。
ですが「おばあさん」だって、生まれた時から「おばあさん」だった訳じゃないのよ。
「おばあちゃんもまた人間」ということは、その生い立ちを聞いてきた中でわかってはきたけれど、祖母を目の前にするとやはり目の前にいる人は「おばあちゃん」でしかないのであり、彼女が「綾子」であることを忘れていた私。しかしやはり祖母は、常に「綾子」でありたかったのではないか、と。
四十代の私自身をとってみれば、自分はまだ「おばあさん」にはなっていないものの「おかあさん」ではある訳です。
(まあ、もっとはっきり言っちゃえば「おばさん」しくしく)
自分の娘とか、親戚や友人の子供からしたら、私は「(娘の)おかあさん」として認知されていて、私が「さくら」であることは、あんまり考えられてはいないかもしれない。
私にも色々あったんだけどさー、オコチャマの時もお若い頃もあったのよ?なんて、たまーに思ったりする時も、ある。
同じことが「おばあさん」にだってあったんだろうと、この本を読んでちょっと考えたりしました。
様々なおばあさんを描きながら、それぞれその「おばあさん」がどんな人生を送ってきたか、どんな女性だったかを語ることによって、この先おばあさんになる人が、どんなおばあさんになるのか考える。
ひとつひとつ読んでいて面白いと思いながらも、しみじみと考えさせられるなあ、と、次の四つ角を曲がったらおばあさん時代がそう遠くない私としてはしみじみりぃな気分でしたよ。