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荻原浩「明日の記憶」

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知っているはずの言葉がとっさに出てこない。物忘れ、頭痛、不眠、目眩――告げられた病名は若年性アルツハイマー。どんなにメモでポケットを膨らませても確実に失われていく記憶。そして悲しくもほのかな光が見える感動の結末。
上質のユーモア感覚を持つ著者が、シリアスなテーマに挑んだ最高傑作。
(Amazon内容紹介より)

いきなり違う小説の話からはじめて恐縮ですが、いま毎日新聞の朝刊で連載している林真理子の「我らがパラダイス」という小説が、めっぽう面白くてですね。毎朝、玄関の郵便受けで鳴る『ゴトッ』が楽しみな私です。

本日2016/10/13の朝刊では、介護施設職員の女性と結婚した若年性アルツハイマーの男性が、とうとう妻の顔を忘れてしまって『上』(この小説内では、要介護者専用フロアを指します)に旅立とうというところ。打算的な職員女性だったさつきちゃんがまさかまさかの可愛い奥さんに変わっていて、今かなり毎日新聞購読者の胸が絞られている最中です。

なかなかいーぞ「我らがパラダイス」。書籍になったら、読んでみそ。

奥さんの顔も名前も忘れてしまう。

大事なことや、思い出も、みんな忘れてしまう。

ついにはいつか、生きることすらも忘れてしまう。

そんな残酷な病気。それが、若年性アルツハイマーです。

「明日の記憶」の主人公が背負った重荷も、それは同じ。

「明日の記憶」の主人公は、広告代理店の営業部長。

イマドキの若者風俗とインターネットにはちょっとうといけど、そこは経験と口八丁でカバーの、まあ、いわゆる普通の中間管理職。

最近もっかの悩みは一人娘がデキ婚を決めたこと。うっかり妊娠してもシングルマザーとはならずめでたしですが、順番狂っちゃったことには内心拘泥しております。

もうひとつ気になるのが、最近ちょっと続いた目眩。物忘れも多く、仕事にも集中力を欠いている。なんだかやる気がしない。

彼が、そして妻の枝美子が恐れていたのは鬱病でした。妻から見ても最近の主人公は、どこかおかしい。精神的な不調を抱えているのではないか。

重い腰をやっとあげて向かった精神科では、パッと行ってパッと薬をもらって万事解決…なんて訳にもいかず。

繰り返される診察と、どんどん大げさになる検査。自分が大学病院のモルモットにでもされているんじゃないかと憤りを感じていた主人公に、医師が告げた言葉とは。

私の顔と枝美子の顔を見比べて、それから医師は言った。
「おそらく若年性アルツハイマーの初期症状だと思われます」
頭の上に、空が落ちてきた。

現代医学では治すすべはなく、ただ進行を食い止めるのが精一杯の若年性アルツハイマー。
ですが『食い止めよう』とする主人公と妻の“闘い”は、胸が痛くなるほどに健気で切ないです。

主人公は日記をつけ、仕事のスケジュールや人名を背広のポケットから溢れんばかりのメモに書き記し、嫌いなカボチャも魚も我慢して食べます。

喫煙者に痴呆症患者が少ないと聞けば、せっかくの禁煙暦を中断し。あ、でもこれは唯一のメリットだと、主人公は言ってますけどね。

妻はアルミ鍋を全て捨て、家中に説明メモを貼り付け、わかっちゃいるのに怪しい水晶のブレスレットなんて買っちゃったりする。

抗っても抗っても、砂時計で砂が落ちていくように、どんどん主人公の記憶はこぼれ落ちていきます。

取引先へ打ち合わせに向かう際、渋谷の街中で迷子になるシーンは、読む度にゾッとします。

主人公の凍るような不安が、ひしひしと迫ってくる。

「なぜだ——」
なぜだ。なにが悪かったんだ。どこで間違えたんだ。教えてくれれば、そこからやり直す。
私は頭を抱えた。こぼれ落ちていく砂をつかみとめるように。そして泣いた。

病状の悪化につれ、会社での仕事にも支障をきたすようになって行き、社内での居場所もなくなって退職。

趣味の陶芸教室でも感じる、周囲のちょっとした悪意。病気の人間に対する小ズルさ

そんなことに対する憤りすら忘れていく主人公は、小説の後半につれ段々と白っぽく変貌して行きます。

白っぽいという例えが悪いようなら、達観。

しんみりと切ないけれど、淡々とした主人公の語り口が、ファンタジックな色合いを見せていきます。

ひとりで家を出て陶芸の師匠を訪ね、同じく痴呆症の窯焼き職人と一緒に焼きものを焼き続ける場面がとても素敵。

病気との闘いをあきらめたわけじゃないけれど、どこか突き抜けたような、何かを洗い流したような。

私は赤ん坊が少女になり、このフルートを吹く姿を想像してみた。自分の顎をなぜる。私の孫というからには少しは私に似ているのだろう。いまどきの子供がこんなものを喜ぶのかどうかわからないから、可愛らしい色と模様をつけておこう。
このフルートをきっかけに音楽の好きな少女に育つかもしれない。いつか自分の道具を自分でつくる喜びを体験してみたいと思うようになるかもしれない。世界的なフルート奏者か陶芸の人間国宝になったりしてな。私は勝手に想像をふくらませた。なにせ妄想はアルツハイマー病患者の特権だ。私が誰かに渡せるものはそう多くはないが、何もないわけじゃない。

そして、主人公が窯焼き職人と別れ、山を下りる途中のラストシーンは、この本の中で一番一番一番美しいシーンです。

是非是非、実際に本を読んでご堪能ください。

人は何度でも恋をする。忘れても、また同じ人に恋をする。素敵だなあと思うけど、残酷。切ないけど、温かい。そんなない交ぜの感情が、この本のラストに集約されてます。

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