どこまでも強く明るく生きぬいた青春。16歳の少女が悪性腫瘍と闘った一年間。そして尊厳死を選ぶまでの日々。ドイツの娘と母の感動ノンフィクション。
(「BOOK」データベースより)
尊厳死と安楽死。この2つ、何が違うか知ってます?
尊厳死は、延命措置を断わって自然死を迎えることです。これに対し、安楽死は、医師など第三者が薬物などを使って患者の死期を積極的に早めることです。どちらも「不治で末期」「本人の意思による」という共通項はありますが、「命を積極的に断つ行為」の有無が決定的に違います。協会は安楽死を認めていません。
わが国では、いわゆる安楽死は犯罪(違法行為)です。ただ一定の要件を備えれば違法性を阻却できるという司法判断は出ています。山内事件の名古屋高裁判決(1962年)の安楽死6要件や東海大付属病院事件の横浜地裁判決(1995年)の4要件です。しかし、日本社会には安楽死を認める素地はないと言ってよいでしょう。
18歳の我が娘曰く。
「死ぬのを待つのが尊厳死。死にに行くのが安楽死」
我が娘の一言が、まさに尊厳死と安楽死を端的に表した説明だと言えるでしょう(親馬鹿)。
この本は安楽死に関連する本ではありません。ですが最近、安楽死に関する本を読みまして。
その感想を当ブログに綴ろうかと思ったらね、どうしてもこちらの本を先に採りあげねば個人的にしっくりこないんです。
1994年に出版された、私さくらが最初に“尊厳死”という言葉を知った「わたしの天国でまた会いましょうね」
今回はこの本と、次にお届けする「安楽死を遂げた日本人」の2本立てでまいります。私の中で25年の歳月をつなげる2冊。
「幸せにはたいしたものはいらない。楽しい人、それは王者!」
「わたしの天国でまた会いましょうね」は1994年の出版時にベストセラーとなった本です。
当時はまだターミナルケアという言葉もQOL・QODという言葉も一般的ではなく、尊厳死も安楽死も一緒くたの認識でした(個人的に)
いま調べてみたところ、この本が出版された前年1993年にはホスピスを題材にした「病院で死ぬということ」という邦画も公開されていたようです。どうやらこの時期、終末期医療について語られ出した最初らしい。
ちなみに今年2019年、私の義母(父の再婚相手)が亡くなったんですけどね。
義母が病気で植物状態となった1か月の間、延命処置をするかしないかというのは家族間の論議の的でした。
お医者さんとの話し合い、いわゆるインフォームドコンセントの中で先生が『治療の積極的撤退』という言い方で尊厳死について言及していました。うまいこと言うもんだなあと感心しましたよ。
閑話休題。さて、この本「わたしの天国でまた会いましょうね」ですが、実のところ尊厳死をド真ん中に据えた本ではありません。結果としてイザベルは尊厳死を選択するけれど、どちらかと言えばそれまでの1年間の闘病生活の方がメインに描かれています。
あ、イザベルってのはこの本の著者のかたっぽです。もうひとりのクリステル・ツァヘルトがイザベルのお母さん。「わたしの天国でまた会いましょうね」は、1982年に悪性腫瘍で命をおとした16歳の女の子とお母さんの、手記と手紙から構成された実話です。
わたしたち家族はあなたを囲みました。先生や看護婦さんたちはそっと席をはずしました。それは神聖な静寂でした。イザベルはもう痛みを感じなくてすむ……。そう思うと、わたしたちの心は慰められました。酸素吸入をしながら、あなたの呼吸は安らかでした。
実際に尊厳死を決定するまでには幾度も話し合いがあっただろうし、当人にも家族にも多大な葛藤があったであろうことは想像にかたくありませんが、そこらへんの記述はわずか数ページで終わらせています。
じゃあ尊厳死とはあんまり関係ないじゃん、とはいかないのは、それまでの闘病生活の記述で、当人の苦痛と悲しみと悩みと、家族の負担と悲しみと悩みをうかがい知ることができるから。また、1年間の闘病生活によりイザベルが急激に大人になって、自分の終わり方を自分で定められる独立した大人になったことがわかるからです。
病気って、やーね。特に子供が病気になるって、やーね。
花の盛りで浮かれてても良い16歳のオンナノコが、大人にならざるを得ないんだものね。
ケルン先生とあなたは、さらに細かい点まで相談しました。あなたは<尊厳死>を望みました。窒息することなく、そして、もしできるなら——家族がそのためにあまり苦しまなくてすむよう——痛みなしに。痛みをおさえ、安らかに眠りにつけるようにしようと約束していただけました。あなたは言いました。死ぬにはどのくらいかかるのですか?それについては誰も答えられませんでした。闘いをやめれば、腫瘍は非常な速さで勝利をおさめるにちがいありません。
この本「わたしの天国でまた会いましょうね」は尊厳死をメインにした本ではありませんし、尊厳死の是非の論議をするための本ではありません。
しかしながら尊厳死という言葉を聞いてまっさきにこの本を思い出すくらいには、私の脳みそにイコールで結び付けられている本でもあります。四半世紀たっても。
時は流れて2019年(も、もうすぐ終わり)。
この25年で、尊厳死や安楽死はどう捉えられるようになったのか。“死”を自分で選択できる時代になったのか。
次記事「安楽死を遂げた日本人」に続く。“死”に刮目せよ!