かつて、北村薫のベッキーさんシリーズ「玻璃の天」にて、『あしながおじさん』の翻訳に関する新旧対比をいたしました。
ベッキーさんについては殆ど記述していなかった当ブログ…北村薫ファンの方々には、誠に申し訳ない。
だって、仕方がないじゃない。
『あしながおじさん』が、好きなんですもの。
で、ブログ内にてワタクシ、こんな感想を述べました。
多分、今現在発売されている「あしながおじさん」は改めて別の人が訳しており、同じ文章でもまたさらに違った印象を与えられるのでしょう。
ちょっと読んでみたいような気もします(でもきっと読まないw)
きっと読まない、とは言ってみたものの、やっぱりちょっと読んでみたくありませんか?
最新の『あしながおじさん』で、検証してみたくなりませんか?
そこで取り出だしたりますは、おそらくは最新であろう2017年6月発行の新潮文庫『あしながおじさん』訳者は岩本正恵さん。
いざ、検証!
尚、訳者は岩本正恵さんとなっていますが、岩本さんは翻訳半ばにして逝去されています。
最終校正は新潮社の編集部と、翻訳家の畔柳和代さんが行なっていらっしゃるので、若干のニュアンス違いはもしかしたらあるのかもしれない。
まあ、ここでは岩本正恵さんのラストワークに敬意を表して、翻訳者は岩本さんということで。合掌。
では検証作業に参りましょう。
1933年の、遠藤寿子版「あしながおぢさん」(「玻璃の天」より引用)
1966年の、中村佐喜子版「おしながおじさん」
2017年の、岩本正恵版「あしながおじさん」
その差は如何に?
假りに鏡で作った大變大きな空洞の珠があつて、あたし達がその中に坐つてゐるとしたら、あたし達の顔は何処で映らなくなるでせう、そして背中はどの邊から映り始めるでせう?この問題は、考へれば考へる程解らなくなります。あたし達が閑な時間でも、どの位深奥な哲学的考察に耽つてゐるかよくお解りでせう!
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)
ひじょうに大きな中空の球体があって、それが鏡でできていて、その中に人がすわったとします。顔が映るのは鏡のどのへんまでで、どこから背中が映るでしょうか?この問題は、考えれば考えるほどわからなくなります。わたしたちは、ずいぶん深遠な哲学的考察に余暇を使っていますでしょう!
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
鏡でできたとても大きな中空の球体があって、そのなかに座っているとします。どこまで顔が映って、どこから背中が映るでしょう。この問題は考えれば考えるほどわからなくなります。わたしたちが余暇の時間にいかに深い哲学的思索を行なってているか、おわかりになるでしょう!
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
だいぶ、違うねぇ~。
上記の引用部分は「あしながおじさん」の中でもとっても大好きな箇所なんですが、新旧対比するにも非常にわかりやすい。
同じことを言ってるんですけどね。文章の流れは、ちょっとずつ違う。
ヂャーヴィー坊ちゃんは社會主義者よ——たぶんあたしは、當然社會主義者なんでせう。あたしは無産階級の生れですもの
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)
あの人は社会主義者ですのよ。——たぶんわたしは生まれながらに社会主義ですわね。無産階級ですから。
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
あの人は社会主義者ですのよ。——たぶん、わたしは生まれながらの社会主義者でしょう。プロレタリア階級の人間ですから。
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
無産階級→プロレタリア階級ときましたね。
でもイマドキの若人は、プロレタリアと言っても分かりますかのう。蟹工船とか読んでますかのう…って、私も読んでなかった。
快遊船とか自動車とか、叉は子馬のやうな氣の利いたものにお金を使はないで、いろんな氣狂ひじみた改革事業に捨てて了ふ
(遠藤寿子 訳「あしながおぢさん」)
気ちがいじみた革新的なことには何にでもすぐお金を投げ出すくせに、ヨットとか、自動車とか、ポロ用の仔馬とか、そんな上品なものにはすこしも使いませんの——
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
あの人は、ヨットや自動車やポロ競技の馬のようなまともなもののかわりに、ありとあらゆるおかしな改革に無駄なお金を使ってしまうとおっしゃいます。
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
「玻璃の天」の記事を書きながら、新旧対比で一番気になっていたのがこの箇所です。
3回目にして、とうとう「氣狂ひ」と「気ちがい」に自粛が入りましたね!昨今の諸事情から言ったら、書き換えないとマズいですよねそりゃ。
さて。3作の対比はここまで。「玻璃の天」のネタが尽きました。
そこでここからはワタクシの所有本から、中村佐喜子版と岩本正恵版の対比をちょっと。
おじさま。あなたは、自分が女の子でなくてよかったとお思いになります?着るもののことで大騒ぎする様子は、まったくばかげているとお考えでしょうね?そうですの。たしかにそのとおりですわ。でもこれはすべてあなたがた男性の罪なのよ。
よけいな装飾を軽蔑して、女の服装は利口で実用的なものがよいと言った、おりっぱな大学教授のことを、あなたはごぞんじでしょうか?たいへん従順なその教授の奥さまは、その『衣服改革』を実行しましたのよ。そうしたらだんなさまはどうしたと思います?彼はコーラス・ガールとかけ落ちいたしました。
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
おじさまは、女の子でなくてよかったとお思いになりませんか。わたしたちが服のことで大騒ぎするのを見て、まったくばかばかしいとお思いでしょう?そのとおりです。まったくそのとおりです。でも、これはすべて男性のせいなのですよ。
おじさまは、不要な装飾品を軽蔑し、女性には良識的で実用的な服を好んだ学識の高い教授殿の話をご存じですか。教授の従順な奥さまは、「服装改革」を受け入れました。そして、教授はどうしたと思います?コーラスガールと駆け落ちしたんですって。
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
上記の訳文は、岩本さん版の方がイメージにそぐうように思えますね(個人の見解)
あっさり、シャキっとした言葉遣いが、ここでは小気味良い感じがいたします。
——ご命令にそむいたことは悪かったと思いますけど、でもあなたはなぜそうがんこに、わたしのすこしばかりの遊びをいけないとおっしゃるんですの?わたしは夏じゅう働いたのですから、二週間くらいの遊びは、当然許されていいものですわ。あなたには、意地わる犬みたいなところがぐごくおありになりますのね。
ですけど——わたしはやはりあなたが好きですわ、おじさま。いろんな欠点がおありになりますけれど。
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
でも、どうしておじさまは、わたしがちょっと息抜きするのを、そこまでかたくなにいやがるのですか。夏じゅうずっと働いたのですから、二週間の休暇を取る資格はあるはずです。おじさまはほんとうに意地悪です。
でも——困ったところはたくさんありますが——おじさまのことが大好きです。
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
わたしゃここの中村さん版の「意地わる犬」ってのが好きでねえ。この文章を見るに、中村佐喜子版のジュディの方が、岩本正恵版のジュディよりも年上な感じがしますよね。酸いも甘いも噛み分けた…ってのは、ちょっと言い過ぎかしら。
まだまだ行くぜ。20代後半オトナ女性のジュディが愛を語る時にはいかがかな?
それからあの人は——。ああ、そうですわ。あのかたはああいうかた。もうどう言っていいかわかりません。彼がいないと、わたしはただ寂しくて、寂しくて、寂しくて。世の中全体が空虚で苦悶しているようです。月の輝きが憎らしいですわ。なぜといって、その美しさをいっしょにながめる彼がわたしのそばにいないからです。でも、あなたもきっとだれかを愛されたでしょうから、こんな気持ちはわかってくださいますわね?だれかを愛されたことがあれば、説明する必要がありませんし、もし愛されたことがなければ、わたしには説明できませんわ。
(中村佐喜子 訳「あしながおじさん」)
そしてジャービーさんは——そう、ジャービーさんなのです!わたしはジャービーさんが恋しくて、恋しくて、恋しくてたまりません。世界中が空っぽで、痛むほどの悲しみに満ちているようです。わたしは月の光が嫌いです。美しいのに、一緒に見るジャービーさんがいそばにいないからです。でも、おじさまもだれかを愛したことがおありでしょうから、おわかりでしょう。そうなら、説明する必要はありませんね。もし、そうでなければ、わたしには説明できません。
(岩本正恵 訳「あしながおじさん」)
……あっ、す、すみません。
ちょっと休憩。ハアハア。キーボード打ちながらトキメキが止まらないわ。
こんな恋情を面々と書き綴った手紙を、当のジャービー坊ちゃま本人が読んでいるかと思うと、ジュディだけじゃなくて私も両頬押さえて走り出したい気分よ。
「あしながおじさん」新旧の訳書3作品を対比しながら、既に何回目かわからない再読をして、個人的には非常に満足、おなかいっぱい。
この記事を読んで、私以外の誰が喜ぶというのか…いいの、いいのよ、極私的な好みだから(言い訳)
きっと数年後か数十年後、どこかの翻訳者さんが新たに「あしながおじさん」を訳したら、きっと私はその本を買うのでしょう。
で、きっとこの記事に4作目の当該文章を貼り付けて、きっと最後にはトキメいちゃったりするのです。
願わくば、その心臓のドキドキが、心筋梗塞のドキドキと誤解されませんように。