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桐野夏生「残虐記」

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自分は少女誘拐監禁事件の被害者だったという驚くべき手記を残して、作家が消えた。黒く汚れた男の爪、饐えた臭い、含んだ水の鉄錆の味。性と暴力の気配が満ちる密室で、少女が夜毎に育てた毒の夢と男の欲望とが交錯する。誰にも明かされない真実をめぐって少女に注がれた隠微な視線、幾重にも重なり合った虚構と現実の姿を、独創的なリアリズムを駆使して描出した傑作長編。柴田錬三郎賞受賞作。
(「BOOK」データベースより)

この小説をミステリとして読むならば、ジャンルとしてはフーダニットに入るでしょう。
つまり“残虐”なのは、だーれだ?

私のことはゆるしてくれなくてもいいです。私も先生をゆるさないと思います。どうぞ、お元気で。

この小説は枠構造になっています。
 

失踪した小説家の夫が編集者にあてて出した手紙。
その手紙の中に入っているのは、小説家“小海鳴海”の執筆した小説『残虐記』の原稿。
その小説の中に入っているのは、20数年前に“小海鳴海”を誘拐監禁した罪で服役していた男“ケンジ”からの手紙。
もうひとつ入っているのは、“ケンジ”と“ヤタベさん”をモチーフにした“小海鳴海”の処女作『泥のごとく』。
 

ひとつの小説の中にいくつもの額縁があって、それは入れ子のマトリョーリカに似ています。
読者はマトリョーシカを開ける度に、階層を下りるように妄想の世界に下りて行くのです。

この文章は、私が死んでもパソコンの中に留まる、と以前書いた。私はどうしても本当のことを書けないでいる。私は今日も二十五年前のノートの切れ端を眺め、先日受け取ったケンジからの手紙を読む。「私も先生をゆるさないと思います」。ケンジ、私も許しを請わないよ。私の目にしか触れない記録を書いているはずだというのに、そして、私は言葉を生業にしているというのに、言葉にできない真実が私を撃ってやまない。叫び起こされる感情が私を息苦しくさせる。

「残虐記」は少女が誘拐監禁されるという犯罪が主軸にはなっていますが、実のところ監禁時の話はかなりあっさりと流されています。全体のページ分量としても半分には満たないの。
あとの半分は何が書かれているのかというと、少女が見つかって解放された後の生活。
 

女の子が犯罪被害にあったというと、世の中の人はまず、性的被害を連想します。
事実はどうだってことは関係なく、噂先行で。そして、その噂は本人が否定しても、家族が否定しても、消えない。
監禁場所から脱け出した筈の少女は、自由な筈の社会でも『性的暴行にあった娘』という視線の檻の中に居ました。
 

やがて転居をし、親の離婚に伴う苗字の変更をし、視線の檻からも脱出。
こっちはこっちで、入れ子のマトリョーシカのイメージが湧きます。ただし今度は段々と大きくなる人形。
重ねて重ねて人形は大きくなっていっても、さらに大きな人形が存在する、つまり自分がまだ小さな檻の中にいることがわかる。
 

マトリョーシカを開けたり閉じたり。人形を出したり閉じ込めたり。
階段を下りたり上がったり。
子供時代に過酷な体験をした少女が、何に折り合いをつけようとしたのか。マトリョーシカの入れたり出したりは、彼女が現実を克服せんとする作業にも思えます。

冒頭で『“残虐”なのは、だーれだ?』と書きました。
この小説「残虐記」の、全ての登場人物がNo.1の“残虐”であってもおかしくはないです。
 

犯人のケンジ。
覗きをしていたヤタベさん。
手引きをしていた社長と奥さん。
 

でも、ヤタベさんと社長と奥さんについては桐野夏生の「残虐記」ではなくて、“小海鳴海”の『残虐記』の記述だから、もしかすると全てが嘘かもしれないという疑いも残ります。
 

だとすると、過去の事件を嘘で塗り固めた“小海鳴海”=少女が、No.1なのか。
それとも小説家“小海鳴海”に一番近しい人が、No.1なのか。
一番近しい人って誰なのよ?って言われたら、そりゃあ本を読んでちょうだいなとしか言えませんが。
 

…って考えると、それにつけても失踪した“小海鳴海”は、一体どこに行っちゃったんでしょうねえ?
幾つものマトリョーシカの、どれかの人形の中に居るのは間違いないんだけど。

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