武家の法度である喧嘩の助太刀のたのみを、夫にとりつがなかった妻の行為をめぐり、夫婦の絆とは何かを問いかける表題作など9編。
(Amazon内容紹介より)
『四日のあやめ』って何だろう?と思った方へ。
この言葉は山本周五郎ちゃんの造語です。ググっても意味は出てきませんので、あらかじめご承知おきあれ。
——四日のあやめか。
と心の中で彼はつぶやいた。主税介が千世との縁談を承諾したとき、江木重三郎がそう云った、「妹の気性のなかには、ひとところいつまでも育ちきらないところがある。私は四日のあやめと名付けているが、それは欠点でもあるし良いところでもあるように思う」兄の眼だから不正確かもしれないが、そこを認めてやってもらいたいと重三郎は云った。
かくいう私も『四日のあやめ』については「???」だったので調べてみました。
そもそも「六日のあやめ十日の菊」ということわざがあるそうです。
六日の菖蒲十日の菊(むいかのあやめ、とおかのきく)
意味:時機に遅れて役に立たないことのたとえ。
※注:菖蒲は五月五日の端午の節句に用いるもので、五月六日では間に合わない。また、菊は九月九日の重陽の節句に用いるもので、九月十日では間に合わないことから。
(故事ことわざ辞典より)
「5/6に菖蒲湯に入っても、もうこどもの日は終わっているじゃん!」というのが『六日のあやめ』
それになぞらえて「5/4に菖蒲湯に入っても、まだこどもの日はきてないじゃん!」と、周五郎ちゃんは『四日のあやめ』と言い指したようです。
『四日のあやめ』の語源がわかっても、さらに疑問は残りますけどね。なんでこのことわざ、菖蒲が“あやめ”になるの?漢字は同じでも、この場合の菖蒲は“しょうぶ”じゃないの?
…まあ、良い。良いわ。気にしないわ。
短編集「四日のあやめ」で私のイチ押しは、表題作の『四日のあやめ』じゃないので。
6年間の思いを大榎の樹にぶつける、女のやるせなさと寂しさの『榎物語』
これ、ちょっと怖い。
落ち葉がさわの軀にふりかかった。
「おまえは初めから見ていたわ」さわは嗚咽のあいだから云った、「あの人とあたしが忍び逢うところも、別れるときに二人がゆくすえを誓いあうところも、そうしてたぶん、それがほんものではなく、やがてはこんなふうになることもわかっていたんでしょう、ねえ、おまえにはみんなわかっていたんでしょう」
—(中略)—
「返してちょうだい」さわは片手を拳にして、榎の幹を打ちながら、低い声で叫んだ、
「六年の月日を返してちょうだい、六年という長い月日を、このあたしに返してちょうだい」
その大榎は微動だにせず、もう落葉のこぼれるようすもなかった。
まずは『榎物語』の筋立てから。
家族からないがしろにされて育ったお嬢様 さわと、皆からじゃけんにされがちな奉公人 国吉との恋。
屋敷の庭に立つ大榎の樹の下でそっと語らうだけの淡い初恋が父親の怒りに触れ、国吉は屋敷から追い出されてしまいました。
で、こういう場合はもちろん、別れ際に言い交わすのがセオリーですよね。
「いつかビッグになって、お前を迎えに来るぜ!」
「ワタシいつまでも、アナタを待ってるわ!」
言葉通りに国吉を待ち続けていた さわ でしたが、ずっとそのままお屋敷で待ち続けているわけにはいきませんでした。
災害でお屋敷は押し流され、親兄弟も全員死亡もしくは行方不明。残ったのは庭の大榎だけ。
彼女が身を立てるまでの過程は省略しますが、とりあえず さわさん、大榎の近くに野点の茶席をしつらえ、そこで往来客に抹茶を供して生活の糧をかせぐようになりました。
さすがお嬢様ですこと…たつきの手段が典雅だわ…。そんなんで生活が成り立つのかの疑問には目をつぶっておこう。
彼女が大榎から離れない理由はただひとつ、国吉のため。
「ワタシいつまでも、アナタを待ってるわ!」
ここで待ち続けていれば、いつかビッグになった国吉さんが迎えにやってくる。
ちなみに、さわに雇われて茶席の手伝いをしている娘 おすげも、山津波で生き別れた恋人をやっぱりここで待ち続けています。
大榎の下の、ひたすらにオトコを待ち続けているオンナふたり。
ちょっと、怖い。
心から愛しあい信じあっている者は、いつか必ず会うことができる。どんな状態の中でも、一と眼でお互いがわかるものだ。さわはその事実を自分の眼で見た。人の話や物語にあることが、現実にもちゃんと存在するのだ。
—(中略)—
石にかじりついても人並に出世してみせる、それまで待っていてくれますか。待っています、五年でも十年でも、一生涯でもあなたを待っています。あれは言葉だけでなく、お互いが心の底から誓いあったのだ。迷ってはいけない、あの人はきっと来てくれる、あたしはその日を待っていればいいのだ、とさわは改めて自分に云いきかせるのであった。
ちょっと、怖い。
おすげちゃんが実際に恋人と再会できたのも力になり、別の男のプロポーズには目も向けず、ひたすらに国吉を待ち続けていたおさわさんでしたが。
結局、国吉は来たのかな?
うん、まあ、来た。来たことは来た。
2年も前に。
2回も。
……わかんなかったのかいっ!
あたしとあの人は向き合って坐り、茶の手前をし、僅かながら話もした。お互いが手の届く近さで向き合い、じかに顔と顔を見合せた。しかも二度まで、——そんなに近く二度もお互いを見、話までしたのに、どちらも相手がわからなかった。あたしには国吉ではないかという疑いさえ起こらなかったし、国吉のほうでもそんなことは感じなかったようだ。
「六年、六年もよ」さわはくすっと喉で笑った。「なんのために六年も待ってたの、さわちゃん、あんたはいったいどこの誰を待ってたのよ」
いやホントに、誰を待ってたんでしょうねぇ?
言い交わした恋人でなくたって、たかだか4、5年ぶりの知人に会えば「あれ?」と思いませんかね?
災害で顔に怪我をしたとか、そういう特殊事情もなさそうですし。「茶を点てた客」としての記憶はしっかりあるわけですし。
つまりは、彼女が待っていたのは「国吉」ではなかった。
じゃあ、彼女が本当に待っていたのは、いったい何なのでしょうか。
実態のないフワフワとした夢のようなものを、後生大事に抱えて誰か(何か)を待っているさわの姿は「いつか白馬に乗った王子様が」の考えにも通ずるような気がして、ちょっと怖い。
夢とか希望とか望みとか、幸せとか、そういうモノは、白馬にまたがってはいないから、お嬢さん方ご注意ね。