深夜のファミリーレストランで突如、男の身体が炎上した!遺体には獣の咬傷が残されており、警視庁機動捜査隊の音道貴子は相棒の中年デカ・滝沢と捜査にあたる。やがて、同じ獣による咬殺事件が続発。この異常な事件を引き起こしている怨念は何なのか?野獣との対決の時が次第に近づいていた―。女性刑事の孤独な闘いが読者の圧倒的共感を集めた直木賞受賞の超ベストセラー。
(「BOOK」データベースより)
この本を一口で言いますと。
『忍従、忍従、忍従…ドッカーン!』です。
小説のほぼラスト近く、音道貴子がオオカミ犬の疾風(はやて)と夜の高速道路を疾走する気持ち良さを満喫するために、それまでの小説8割方までの間、貴子と読者は忍従に耐える必要があるのです。
ですので「凍える牙」を読み始めたら、一気に最後まで読み通さないと意味がありません。途中で投げ出すのは具の骨頂と言えましょう。ひたすらに耐え忍ぶのがお好きな方は除いてね。
でも、さすがに耐えるだけじゃ読者にもストレスがたまります。よって、冒頭でドカンと一発花火を上げておきましょう。
ドカンと花火は深夜のファミレスで。夜間アルバイトの女の子の目の前で燃え上がる人体。あーあーあー、この子一生涯のトラウマを背負うよ可哀想に。
何が可哀想かって、実の所この人体発火、小説の本筋とは全く関係ないんです。最初に派手にブチあげておきながら、途中からすっかり忘れ去られて本筋はオオカミ犬に移ってしまいます。
おーい、発火ー。どこにいった発火ー。
ラストでは発火事件の方もついでのようにカタがつきますけど、正直、どうでもいい…小説としてはオマケ程度のエピソードを堂々と冒頭に冠した作者の乃南アサの意図は、やっぱり読者サービスだと思いますの。この先の苦難に耐えるための人参として。
最初のドカン花火のあとは、音道貴子の女工哀歌がつづきます。
貴子さん公私共にブルーonブルー。
離婚してから一周年、この「凍える牙」の時代には、シリーズで後に登場する椅子職人の彼氏も出来ておらず、いわゆる“空き家”です。
おひとりさま状態にも未だ慣れず、旦那の浮気⇒離婚の鬱屈をウジウジウダウダと引きずる私生活。
実家住まいの妹は、不倫して妊娠して中絶して家出してやってくるしね。姉の古傷をグリグリと抉って憚らない。それが妹クオリティなのか。
貴子に邪険にされると妹、自殺未遂して入院沙汰になるし。
そしたら実家のかーちゃんは、それを貴子のせいにするし。かーちゃん、ちょ、姉妹で差をつけすぎだ。
仕事上でも、貴子さんの苦悩は続きます。
発火事件の捜査でペアになった滝沢刑事。はい、以前このブログで取り上げた「鎖」のおっさんですね。
「鎖」ではずいぶんとまあ、優しく頼もしげな扱いになっておりましたが、最初に登場の「凍える牙」では、ほんとムカつく嫌みったらしいオヤジでしかありません。
『刑事に女は必要ない』と女性蔑視も甚だしい滝沢と貴子は、ペアを組んでの捜査も思うようにいかない日々。
「鎖」のクソ星野よりはよっぽどマシですが、それでもやっぱり読んでいて腹はたちますわ。
後半になってだんだんと、滝沢の気持ちもほの見えてくるものがあります。貴子に対するミソジニーは、なにも滝沢個人の問題じゃなくて、警察機構という組織全体に根強くはびこっている問題であると。少なくともこの小説世界ではね。
実際の警察では、どうなんだろうなあ。2016年の今でもまだ『捜査の最前線は男の世界』なんて前時代的な物言いをするタイプは多いんだろうか。多いんだろうなあ…。
「乗るのがうまいのは、バイクだけかねえ」
「バイクになりたいもんだねえ」
そんな会話も、今は誰に遠慮することもなく、大っぴらに交わされる。結局、女と一緒だと窮屈なのだ。殺風景でも何でも、誰に遠慮することもなく好き勝手なことを話していられたほうが、職場としては快適なのだ。滝沢は、ようやく元通りのリズムで動けるようになったことを心の底から喜ぶことにした。
耐え忍んでラスト数十ページまで読み進めた貴方!お待たせしました!オオカミ犬・疾風が登場してから「凍える牙」は俄然スピーディな展開となります!
犬ではありますが、疾風のイケメン感はハンパないっす。いうなれば、石川五右衛門?みたいな感じ?
石川五右衛門が幼少期のクラリスに袴をスカートめくりされてもジッと耐える姿、を想像して頂ければ、疾風のイケメン感の一端がお分かりになるでしょうか。例えが古い&若干変態的ですね。すいません。
復讐の道具となって人間を噛み殺した疾風は、娘・笑子を焼き殺した放火犯を、自らの意思で追い始めます。
飼い主は『行け』とだけしか命令していないにも関わらず。
疾風の行方を追い、新たな殺害を未然に防ぐべく“トカゲ”の貴子がオートバイで走ります。
ここからが、気持ち、良い。
「行きたいところまで、行きなさい!」
ヘルメットの中で、貴子は大声で疾風に呼びかけ、そして、声を出して笑った。普段から一人でオートバイに乗っていると、貴子は独り言が多くなる。誰にも聞かれないのを良いことに、思い切り悪態をつき、歌を歌い、自問自答を繰り返す。だが、誰かと一緒に走っていて、こんなに楽しいと感じたことはなかった。道路が続く限り、疾風と走り続けたい。あの、銀色の生き物を追いかけたかった。
追跡中の疾風もかなりな格好良さで、ワンコ好きにはたまらない?
忍の一字だった貴子も、色々なものから解き放たれて、読んでいて非常に心地よい疾走感が味わえます。
その疾走感を思う存分満喫するために、「凍える牙」の前8割まで耐え忍ぶ価値はある。
効果的にカタルシスを味わうには、読み始めたら最後まで一気読みで。途中で投げ出したら勿体ないよ。