食品メーカーに勤める一家の主・晃一の左遷から、田舎の古民家に引っ越した高橋家。夫の転勤に辟易する史子、友達のいない長女・梓美、過保護気味の長男・智也、同居の祖母は認知症かも知れず…しかもその家には、不思議なわらしが棲んでいた。笑えて泣ける、家族小説の決定版。
(「BOOK」データベースより)
荻原浩の中で、一番ハッピーで安心できる結末を迎えられる小説って何?
そう聞かれたら、一も二もなく「愛しの座敷わらし」と答えます。
もともと荻原モノは、どの作品でもほっこり心温まるラストが多い(一部例外を除く)ですが、その中でも極私的に「愛しの座敷わらし」が一番のほっこり小説だと思っております。ほっこりー、ほっこらー、ほっこれすとです。
しかしながら、荻原モノの主人公はその殆どが、小説のはじまりではダウナー。「愛しの座敷わらし」も例外ではありません。
「愛しの座敷わらし」の主人公・晃一も、勤める社内での失策によりで突然の地方支店転勤命令。リストラ一歩手前のギリギリボーイズです。
晃一の母澄代は、老人性痴呆が疑われる健康不安。そして妻の史子も、姑との軋轢に悩みストレス過多。娘の梓美は友人関係が上手くいかず、息子の智也も喘息の症状悪し。
大きな波風は立たないまでも、どこかギシギシとした関係だった一家。
突然の引越しは、彼等にとって大きな波風となりました。ギシギシとした一家は、ギシギシとした家に。ちょーギシギシしてますよそりゃ。築100年超の古民家。率直に言えばボロ家。
都会からド田舎への引越しで、家族全員『人生オワタ』の気持ちではありましたが。
「ほわぁ」
5人の前に、ちょっとずつ影をあらわす、おかっぱ頭の女の子。
知ってる?座敷わらしのいる家って、住んでいる人が幸せになれるんだよ。
ところでこの本の中で、ずっと疑問に思っていることがあるんですけど。
妻の史子がプロパンガスの火力に感動する場面があるのですよ。都市ガスよりもずっと火力が高く、炒め物もシャキっと仕上がると。
でも、知人曰く「プロパンの火は弱い。都市ガスの方が強い」と私に言います。
実際のところどうなんでしょう?ずっと疑問なんですよ。両方使ったことのある方、教えてくださいなー。
話を戻して。
「愛しの座敷わらし」の中では、特に大きな事件が起こることはありません。
でも、座敷わらしが家族の前に姿を現すようになってから、住人は少しずつ再生の道を歩みだします。
智也の喘息が治ったりね。でもまあこれは、田舎の綺麗な空気を吸った好影響もあるでしょう。
澄代の痴呆が好転したりね。でもまあこれも、都会のせわしい日々よりも、生活リズムが合ったという風にも言えるでしょう。
史子がイライラせずに明るくなったりね。でもまあこれは、姑との軋轢が少なくなったのが理由かもしれない。
梓美が転校先の学校で大事な友達ができたりね。でもまあこれも、接する仲間が変わったり、梓美自身が大人になってコミュニケーションスキルが上がったとも考えられる。
晃一が地方支店で生み出したアイディアが本社で評価されたりね。でもまあこれは、本社⇒地方支店という視点の差から、新たな発見があったのかもしれない。
だから、幸せが座敷わらしの贈り物なのか、それとも全然関係ないのかはわからない。
ただ確実なのは、家族5人それぞれが、絣の着物の女の子を、大事な6人目の家族だと思っていることだけ。
話の途中で、座敷わらしの由来を語る場面が出てきます。
座敷わらしは『間引き』で殺された嬰児の幽霊だと言われています。その由来を考えるとね、座敷わらしが“福の神”になっているのって、哀しい。
自分が殺されても、その家に住み着いて、住む人を幸せにしようとするなんて、あまりにもけなげじゃありませんか?
「愛しの座敷わらし」の座敷わらしが可愛らしいだけに、そのけなげさにちょっと泣けます。
大事な大事な、6人目の家族。
だけど、晃一の仕事ぶりが評価され、再び本社に返り咲くことになりました。
岩手の古民家は、再び空き家に。
小説の最後は、東京へと車を走らせる、一家の移動風景で幕を閉じます。
以前はあんなにも帰りたかったのに、何故か色褪せて魅力を感じない東京。
懐かしい町。懐かしい友達。懐かしい台所。そして、愛しの座敷わらし。
あの子は一家が去った後、ずっとあの古民家で、たったひとりで次の住人を待ち続けるのだろうか。
そして、道の途中で入ったファミレスで。
「六名様ですね」
……あれ?
やっぱり「愛しの座敷わらし」は、荻原浩一番のほっこり小説だと思います。ほっこりー、ほっこらー、ほっこれすとです。