深夜のバー。小学校のクラス会三次会。男女五人が、大雪で列車が遅れてクラス会に間に合わなかった同級生「田村」を待つ。各人の脳裏に浮かぶのは、過去に触れ合った印象深き人物たちのこと。それにつけても田村はまだか。来いよ、田村。そしてラストには怒涛の感動が待ち受ける。2009年、第30回吉川英治文学新人賞受賞作。
(「BOOK」データベースより)
朝倉かすみは「田村はまだか」が初読了。
で、これがけっこうな面白さでした。
味をしめて、その後朝倉かすみ作品をいくつか読みましたが、どうも「田村はまだか」を超えるものに出会わない。
「夫婦一年生」とかはそこそこ面白かったのですが・・・田村を超える作品はまだか、朝倉かすみ。
さて。
「田村はまだか」=朝倉版「ゴドーを待ちながら」?
いえいえ、ベケットの「ゴドーを待ちながら」とは、大分違います。
「ゴドー・・・」は、劇中(ちなみに戯曲です)で“ゴドー”が何者なのか、何故登場人物はゴドーを待っているのかが全く明かされない不条理劇です。
対して「田村はまだか」は、田村さんが何者なのか、どうして皆は田村を待っているのかは、話の当初から説明されています。
小学校同窓会の三次会で、遅れてくる田村を待っているかつてのクラスメイト5名(&スナックのマスターで計6名)
ね?条理に満ち満ちているでしょ?
「田村はまだか」は短編集の、それぞれの短編の中でちらりほらりと登場しつつ、物語は田村を待つ人々の来し方と心象風景を中心に進んでいきます。
それぞれの登場人物の中で「田村」は、あれですね。ユーミンの
「あーなーたはー、わーたーしのー、せーいしゅんー、そのものー」
な存在として捉えられています。
いやでも、もし「田村」が実在の人物だったとしたら、どうよこれ?と思うところも無きにしもあらずですが。田村の家庭環境とかの問題ではなく。
小学校の教室内で授業中に、クラスメイトの女子に向かって
「好きだよ」
と衆人環視の中で告白する田村。おい田村。お前はシブがき隊のNAI-NAIシックスティーンか。
登場人物の中で素敵なのは、スナック「チャオ!」のマスター花輪さん。
酔客を俯瞰しているようでいて、自分自身も「ついちょろっとマシュマロポチャ娘と浮気しちゃってすぐにバレちゃってこんちくしょー。でも良い思いしたなと思っちゃって自分自身にこんちくしょー」という、ゲスくて貧相な来し方もあったりするのが可愛いですね。
まあ、可愛いとは言っても、私だって花輪の妻と同じ処遇をするけどね。
で、ただひたすらに田村を待ち続ける小説です。
果たして田村は来るのか?来ないのか?と、本の宣伝文句ならばこう書いて終わるかもですが、面倒なので書いちゃいます。
来ます。田村さん、来ます。
が。来て、がっかり。
本の中で私の中の“田村”が広がりすぎてしまったのか、小説が実写映画化された時に感じるようなイメージの違いを感じてしまいました。
きっとマスターの花輪さんも同じような感想を抱いたに違いない。
できれば、田村は、来ないでほしかった・・・。ディズニーアニメ「美女と野獣」で、野獣が王子に戻って振り向いた瞬間のような「びっくり&がっかり感」でした。
田村には、ぼんのくぼがへこんだままでいて欲しかったんだよう。野獣も野獣のままの方が可愛かったんだよう。