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浅田次郎「天切り松闇がたり〈第1巻〉闇の花道」

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夜更けの留置場に現れた、その不思議な老人は六尺四方にしか聞こえないという夜盗の声音「闇がたり」で、遙かな昔を物語り始めた―。時は大正ロマン華やかなりし頃、帝都に名を馳せた義賊「目細の安吉」一家。盗られて困らぬ天下のお宝だけを狙い、貧しい人々には救いの手をさしのべる。義理と人情に命を賭けた、粋でいなせな怪盗たちの胸のすく大活躍を描く傑作悪漢小説シリーズ第一弾。
(「BOOK」データベースより)

「長屋のガキどもは、よくこんな戯れ歌を唄いながら隠れ鬼をしたもんだ。——三社祭の神輿の前で、うちの旦那に中抜きかけた、目細の安、みぃっけた」

あまりにも『天切り松』の安吉一家の面々が格好良すぎて、私には彼等の魅力の100分の1すら語りきれる気がしない。

作中の粋でいなせな台詞まわしを抜粋するだけで日が暮れる。いや、夜が明ける。いや年を越す。

だから、くだくだしいことは言わない。

伝えたいのはこれだけだ。

大正ロマンに憧れを抱く人がいたら、天切り松を読みなさい。

江戸っ子の粋な言い回しに胸躍らされる人がいたら、天切り松を読みなさい。

男のダンディズムに憧憬する人は、天切り松を読みなさい。

小股の切れ上がった女のふと見せる純情にきゅんとくる人がいたら、天切り松を読みなさい。

枯れたジジイに渋みを感じる人がいたら、天切り松を読みなさい。

歌舞伎の大向こうから聞こえてくる掛け声にシンパシーを感じたら、天切り松を読みなさい。

絶対に、後悔はさせない。

…てな感じで、天切り松について私が言いたいことは、これで終わったかな?

では、後は私が好きに語りましょう。あっちを見てもこっちを見ても、語りつくせる気は到底しないんだけれども。

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天切り松のシリーズは、盗人稼業“目細の安”に数え年9歳で身売りされてきた松蔵が、老人になってから昔話を語る形式で話が進む短編集です。

安吉一家の面々についても言い出したらキリがなくなるので、ここはひとつ、安吉一家ではなく松蔵のねーちゃんの話など。

『第四話 白縫華魁』『第五話 衣紋坂から』のふたつにまたがるお話です。

男の子である松蔵が、わずか9歳で盗人一家に身を売られたとしたら。

その家に女の子がいたならば、そしてその娘が非常に器量良しであったならば。

娘の運命は、まあ、決まっているようなものですよね。

ごくつぶしの父親が娘を売った先は、数ある遊郭の中でも吉原一の大店でした。

やさしいが気丈な姉だった。母が死んだときにも、唇を引き結んで泣かなかった姉が、声をしゃくって泣いていた。
「ねえちゃん……」
「おまえ、ちゃんと学校に行っとくれよ。ねえ、中学にも行って、丸の内の勤め人になって、ねえちゃんを迎えにきておくれよ。おとっちゃんはあんなこと言ったって、ごくつぶしには違いないんだから、きっと酒だの博奕だのって、むだなお金を遣っちまうに決まってる。だからおまえからも頭を下げて、学校だけは行かせてもらいな。ね、そうしとくれ」
泣きながら諭す姉の物言いは、母とそっくりだった。
松蔵には姉の泣く理由がわからなかった。きれいな着物を着て、毎晩父にそうするように燗をつけ酌をすることが、なぜそれほど悲しいのだろう、と思った。

姉は吉原に売られ、弟は盗人に売られ、数年後に弟は紆余曲折あって慶応義塾に通う廓の息子と仲良くなります。

友達、康太郎の伝手を頼れば、吉原大門の内に閉じ込められた姉と再会できるかもしれない。

安吉一家の兄貴分、詐欺師の“書生常”の力も借りて、府立一中生のフリをして入り込んだ吉原。あ、府立一中というのは今の日比谷高校ね。

折りしもその日は、花魁道中が行われる予定。太夫の道中を見物しようと鈴なりの観衆の中に姉の面影がいないかと、物干台から目をこらす松蔵。

そこへ澄んだ一丁の柝の音と、親方の口上。

角海老の東雲太夫が突然の急病で道中かなわず、白縫華魁が道中を相つとめると。

白縫華魁とは最近評判となっている、凄まじい美貌と噂の高い、うら若き太夫。

大輪の菊をいっぱいに描かれた真紅の天鵞絨の褄を取り、三枚歯の高下駄を外八文字に切った白縫華魁の艶姿。

松蔵が探していた姉の面影が、そこにはありました。

「なあ、旦那方。お若えあんたらにァ皆目わかりもすめえが、俺ァそんとき目の潰れるような白縫華魁の美しさに、初めててめえの身の上の不幸を思いついたんだ。苦労は人間を博奕打ちにも肺病やみにも、盗ッ人にせえ変えちまう。いかに吉原一の美形たァ言え、四年の間のおさよの様変わりァ、人の世の不幸そのものだった。そうよ——誰も気付きはすめえが、今をときめく稲本の常磐や左文字の九重てえ太夫も顔色をなくす角海老の白縫は、この世の不幸てえ不幸をがっしりと担いで立ち上がった、十七の小娘だった。苦労てえ化物の艶姿を、俺ァそんとき、この目ではっきりと見ちまったんだ」
天切り松は瞼をおろすと、湯呑みの底を覗くようにして冷えた茶を啜りこんだ。
「続きを、聞きてえか」
人々は暗黙のうちに肯いた。

続きを聞きてえのは、ジジイの闇がたりを聞く留置場の面々も然りですが、読者もまた然りです。

ここから、さらに涙ナミダの浅田節に翻弄されていきますよ。松蔵と康太郎の、互いの境遇への思いとか、松蔵の願いを受けて白縫=おさよ姉さんを身請けさせようと奔走する“説教寅”の無骨な純情とか。

カチューシャかわいや
わかれのつらさ
せめてまた逢うそれまでは
同じ姿で ララ いてたもれ

老いた天切り松が、おさよ姉さんを想って口ずさむ『カチューシャの唄』の切なささえも、私には到底語りつくすことは出来ないのだけれども。

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