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谷川俊太郎,塚本靖「しんでくれた」

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いきものは いきものをたべなければ いきていけません。
にんげんは ほかのいきもののおかげで いきているのです。
「いのちは いのちをいけにえとして ひかりかがやく」
そのことを わすれたくありません。
~谷川俊太郎~

この絵本の表紙絵はハンバーグ
「しんでくれた」のは誰か、は、大人ならばすぐに判りますよね。

ちょっと重い、でも、深い本です。

どこかの小中学校で「いのちの授業」としてニワトリを屠った、とか、テレビで見たことがあるような気がします。
脚本家の倉本聰さんの「富良野塾」でも、塾生ひとりひとりに自分達でニワトリを調理(シメるところから血抜き、毛むしり、解体も全て)させるとの話。
ニワトリを殺すというと一見残酷な話のようにも感じますが、一度もニワトリを食べたことがない人は(殆ど)いないはず。
私たちが「殺さない」だけで、私たちの見えないどこかで「殺してもらって」いるんですよね・・・。

私たちは、誰かが「殺した」いのちを食べている。
私たちは「殺された」いのちを食べている。

「しんでくれた」の中の『ぼく』は、チョー能天気な顔をしてハンバーグ食べてます。
そりゃそうだ。牛が死んだからって葬式みたいな顔してハンバーグ食べる人はいない。
私もそうだし。ハンバーグ食べるし。おいしいし。多分ハンバーグ食べている時に鏡を見たら、チョー能天気に幸せそうな顔して食べている自分が写ると思います。

そして、チョー能天気な絵の後には、「しんでくれた」うし達の絵が入ります。
屠殺風景を描いた直接的な絵ではないけれど、描かれている情景は間違いようもなく浮かびます。
これ、は、子供読んで大丈夫かなと心配になるくらいだ。
自分の体温が0.1℃下がる感じ。

絵本の後半は転じて『ぼく』

ぼくはしんでやれない
だれもぼくをたべないから

死の理由付けを、あえて 食べる/食べない でするっと分ける。
詩、ゆえかなあ。なかなか豪快だ。

私たちは「誰も食べない」ので「生きて」います。
だから、この絵本は可哀想な話として読むのではなくて、「しんでくれた」命をもらって「いきる」生命賛歌として読むべきなのだと思います。
頭の片隅、ほんのちょーーっとの裏っかわの少しのスペースにだけ「しんでくれた」うし達を置いておきながら。
感謝を込めて。生きるのだ。力強く生きるのだ。

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