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吉野朔実「少年は荒野をめざす」

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【あの少年は私 今もあの青い日向で世界の果てを見ている】浅葱中・名物トリオの一人、狩野都。小説を書き、いつも不思議な雰囲気を漂わせる狩野は周囲から浮いてはいるものの、管埜と小林と3人で学校生活を楽しんでいた。しかし時は受験シーズン。否応なしに現実を突きつけられる日々の中、狩野は黄味島陸と出会う。彼は狩野の心に棲み続ける少年にそっくりだった…。揺れ動く青春と影。
(Amazon内容紹介より)

思春期とばくちの少女の、居心地の悪さを描いた作品です。漫画で描いた純文学。
 

高校生の時に友人から借りて読んだ「少年は荒野をめざす」ですが、大人になってからこの漫画の題名が五木寛之の「青年は荒野をめざす」のオマージュであることに気がつきました。

ち、違う?ただの偶然かしら。でも多分なにがしかの気持ちはあったと思うのよ。
「少年は」と「青年は」は、全くストーリーは違えども、どちらも社会不適応感とか、アイデンティティークライシスが主題となっています。

5歳の野原に 少年をひとり おきざりにしてきた
今も夢に見る あれは
世界の果てまで 走って行くはずだった真昼

やけるような緑と 汗と言う名の夏が 身体にべったりはりついて
空には
付け黒子みたいな黒揚げ羽が 幾度も幾度も まばたきしていた

あの少年は私 今もあの青い日向で
世界の果てを見ている

主人公は中学3年生の狩野都ちゃん。
セーラー服が初々しい学生だけれど、プロの新人小説家でもあります。
5歳の時に死んだ実兄の代わりのように、幼少期は自分のことを男の子だと思い込んでいました。
 

都ちゃんの場合は生い立ち的な特殊事情はあれど、ある一定層の女の子は、自分の中に少年性を感じることもよくありますよね。
下賎な言い方をすれば『オレ女』とか『ボク女』
彼女達が全員そうではないにしても、女の子が自分の呼称を『ぼく』というのは、自分の中の女性性を認めたくない潔癖な心情の現れもある気がします。
トランスジェンダーとは違う意味ね。

「もう僕の代わりはしなくていいよ。都は女の子なんだから」

兄が亡くなり、かつて男の子だった自分と、現在の女の子である自分がうまく融合できずにいる都ちゃん。
髪を長く伸ばしてセーラー服を着ても、自分を受け入れられていなかった少女が、“少年のときの自分が成長した”ような姿の男の子と出逢うことから、女の子である自分を取り戻すまでのお話です。

“自分の中の少年”である陸にも複雑な生い立ちがあったり、ストーカーが出たり家出騒ぎがあったりなんだりと、なかなか忙しく色々とあるのですが。
そこらへんはどっかのまとめサイトでもご覧頂くとして、ここではストーリー的に関係がない都のお父さんの発言を取り上げてみようと思います。

「ああ、都はあのとき自閉症みたいになってたから」

お兄さんが死んだ直後、内省的になっていた都を称して言ったお父さんの言葉。
 

「少年は荒野をめざす」は1985年に連載されていた漫画。昭和のおわり間際ですね。
あの当時は『自閉症』という言葉が、世間で大きく誤解されていた時代でした。
内省的だったり、自分の殻に閉じこもって他人とコミュニケーションをしないのが『自閉症』という“病気”だと思われていた時代です。
ちなみに先日このブログで紹介した、筒井康隆の「最高級有機質肥料」でも、ラストには主人公が『自閉症』になったと同様の誤記をしています。
 

なにも両者の間違いを重箱のスミつつくように論うつもりは毛頭ない。世の中の全体が、そういう認識だった。
 

ダスティン・ホフマンが自閉症の人を演じた映画「レインマン」で、その認識は大きく変わりました。
世間の自閉症認知度合いはビフォー・レインマンアフター・レインマンできっぱり分かれ…るような気がします。

いまではもう、自閉症という言葉すら使わなくなってきてますからね。自閉症も含めた『発達障害』という方が一般的。
自閉症が“母親の愛情不足”が原因(と言われていた時代もあったのよ)という無理解も、今ではもう殆どされなくなっているのではないでしょうか。
 

つまりだな。
何を言いたいのかというとだな。
世の中の認識とか一般常識なんて、30年たったら全く変わっちゃうって事です。
 

いま2016年の私たちが、当たり前のように認識している事実は、もしかしたら間違っているのかもしれない。
30年後には誤解だったと分かるのかもしれない。
だから、今の常識だけを妄信するのではなくて“間違っている可能性”も心の中のどこかに引っ掛けておきたいな、と、私 さくらは自戒の念を込めてこのブログを綴るのでした。
「少年は荒野をめざす」の話とは全然関係なくて、ごっめーん。

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